44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊱

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

RD (公認管理栄養士)としての初めての就職。バケーション。そして失職。

 

著書より前回の続き

 

日本行きのバケーション

 

 その年の6月から、スティーブンとともに暮らし始めていたので、8月の末から9月の始めにかけての2週間のバケーションをとり、スティーブンと日本に帰国した。以前に米国再入国不可の勧告を受けた経験からも、米国再入国に必要な書類については、弁護士事務所にも確認して、万全を期した。

 バケーション前の最後の日には、全てのスケジュールをクリアしようと、6時の定時を過ぎても頑張っていると、そこにさらに、MDS コーディネーターから追加を次から次へと頼まれ、8時になってもまだ終わらなかった。翌日からくる臨時のダイエティシャンに頼むより、私のいる間に、滞りなく済ませてしまいたいからのようであった。それでも、翌日は予定通りバケーションに旅立つことが出来た。

 2週間の旅を終えて、米国に戻るべく成田空港に着いた。フライトの窓口に行ってパスポートを提示すると、係員から、ビザがないと言われた。だから飛行機に乗れないと。そんなバカな。そんな時に備えて、弁護士事務所から指示されていたように、米国移民局からのH1B ビザの発行証明書とビザ申請書一式のコピーを提示した。だが、それでもH1Bビザのスタンプがパスポートにないから駄目だと言う。確かにそのスタンプはなかった。でも、弁護士アシスタントが指示した通りにしたのだ。もう何が何だかわからなかったが、ともかく飛行機には乗れないというのだから、観念して、スティーブンと共に友人宅に戻った。そしてその夜(アメリカでは午前中)アメリカの弁護士事務所に電話して、弁護士本人と話した。弁護士は、アシスタントの指示ミスを認め、唯一の解決策は、日本でそのH1Bビザのスタンプをもらうことだと言った。書類は全て持参しているので、その申請には問題はない。翌日早速ビザ等を代行する代理店に出向き、H1Bビザのスタンプをパスポートにもらう手続きをした。

 手続きは簡単だったが、そのスタンプの発行までに10日から2週間かかると言う。後はただスタンプの発行を待つだけなので、スティーブンは先にアメリカに戻り、私は姉の所で時を過ごした。職場のマネージャーのデボラにも直ぐ電話し、留守電に、それらの事情と帰国が伸びる旨も残した。

 

職を失う

 

 10日ちょっとしてから、ついにそのH1Bビザのスタンプのあるパスポートを受け取り、無事に米国に帰国した。9月の20日頃になっていた。翌日早速、職場に赴き、マネージャーのデボラに会った。予想通りデボラは機嫌悪く、文句を言い始めた。仕事が腐るほど出てきて、やってもやっても終わらないということだった。確かに帰国が遅れ、バケーションが伸びたのは(弁護士事務所の件はさておいて)100%私の落ち度だが、私の留守中は臨時のダイエティシャンが代行している筈だ。日数をカバーできなかったのかどうかは、ひっきりなしの文句でよく分からなかった。ただ、仕事の割り当て量が異常に多いというのは、マネージャーの裁量なので、私のせいではない。

 結論は出さずに、終わりのない文句が続いた。私の荷物は、あたかも首を匂わせるように、小さな袋にまとめられていた。私は、だんだん聞くのも億劫になって来た。私は、そこで、どんなにつらくても、最低1年は働こうと思っていた。H1Bビザをサポートしてくれたのだ。その恩は忘れない。でもそのなじるような文句は延々と続いていた。私はもうけりをつけたいと思った。それで私はデボラに、辞めろということなのかと聞いた。それに対してデボラははっきりとは答えなかった。肯定も否定もしなかった。でも私は、首になったかのように、荷物をもってデボラに別れを告げた。

 H1B ビザは、職を失うとともに、失うのだが、その後間もなく、弁護士等と話すと、職を失ってもまだ猶予期間というものがあるということを知った。それには、職を失った日を確定するために、雇用者の解雇日を記した手紙が必要だと言う。それで、私は、デボラに、連絡し、その旨を頼んだが、結局その手紙はこなかった。彼らは私を解雇したことにはしたくなかったらしい。

 

職探し、結婚、グリーンカード

 

 職を失って、H1B ビザも自動的に消失したので、職には付けないわけなのだが、なぜか反射敵に職探しの電話をしていた。その後直ぐに、前述の、解雇日を記した手紙が必要なことを知り、それを要求して待ったがそれも来なかったので、猶予期間を特定することもできず、結局職探しはできないと悟った。

 スティーブンはパートなので、私の収入がメインだった。だから、それからというもの、彼のパート収入と私の貯金の切り崩しで食いつないで行くしかなくなった。一緒に暮らし始めた頃から、特に問題がなければ、約一年後に、私達は結婚する予定だった。その予定を繰り上げるような恰好で、その年の11月に、小さな教会で、スティーブンの友人の立ち合いだけで、結婚式を挙げた。 

 結婚後直ぐに、アメリカ人の夫との結婚による労働許可証グリーンカードの申請を行った。労働許可証は翌年の6月に、グリーンカードはその5カ月後の11月に発行された。

(続く)