44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊵

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

約二年半務めたバーゲン・レジョナル・メディカル・センターを出てから、入った職場は、ソデクソ(Sodexo) と言う、フードサービスの提供や施設管理事業を展開している会社が契約している病院や施設だった。大きな会社で憧れもあったのだが、災難に会い、遠距離通勤を余儀なくされ、三年半(病院や老人ホームを転々とする)後に、比較的近場の病院に移る。そしてそこで、いじめにも会う。

 

著書より前回の続き

 

ソデクソ(Sodexo)

 

 実は、先に勤めていたニュージャージー州の3つの病院とテーラー・ケア・センターの食料・栄養科は、ソデクソと言うフード・サービス等を専門とする会社が契約で請け負っていた。だから、私は、正確に言えば、ソデクソ の社員であった。ソデクソ では、もし社員の過失ではなく、社員が職を失った場合は、一時的にマネージメント・チームと言う部に回され、ソデクソ 傘下の職の空きがあればそこを一時的に提供される。そしてその間に、ソデクソ 内でも外でも職を探すよう奨励される。

 テーラー・ケア・センターが閉鎖されると、私は、ハーレムの病院のダイエティシャンの職を提供された。それから4カ月後に、そこで休職していたダイエティシャンが復帰してくると、今度は、チャイナタウンの老人ホームの職場を提供された。通勤には、車、電車、地下鉄、歩き、そして乗り継ぎや待ち時間を合わせると、合計2時間かかった。朝6時に出て、夕方6時に帰る生活に疲れ果てた。そしてそこのマネージャーが変わり、意地の悪い性格の新しいボスの下で働らかなければならないことにも消耗した。ソデクソ内外の目ぼしいところに応募したが、採用には漕ぎつけなかった。でも、リーマンショックで、巷では失業者があふれていることを考えれば、職があるだけでありがたいと思い、耐え忍んだ。

 ついに次の職場を見つけ、結局、ソデクソ のお世話になったのは、2007年(平成19年)2月から2010年((平成22年)8月までのことだった。

 

ソデクソ を出て

 

 先のチャイナタウンの老人ホームで働きながら職を探している時、車で通える範囲の病院での初心者のポジションの募集を見つけた。給料はずっと下がることになるが、その給料を受け入れると、採用された。セント・フランシス・ホスピタル(St Fransis Hospital) だった。だが、一度膨らんだ家計が、また初任給レベルに下がると、やはりやりくりはできなかった。試用期間の3カ月が過ぎて、社会保険が差し引かれるようになると、悲鳴を上げた。給料が安い事を除けば、全てが平和で、温かい職場だったのだが。

 少しでも給与のよいところを求め、4カ月後に、たったの5分だけだが、自宅からの通勤時間がちじまることの良さもある、バッサー・ブラザーズ・メディカル・センタ(Vassar Brothers Medical Center) の職を見つけ、移った。365床もある大きな総合病院で、パートを含めてダイエティシャンは5・6人いた。マネージャーは、私のCNSCの資格にも敬意を表してくれ、私も張り切って仕事を始めたのだった。だが、私の英語のおぼつかなさもあってか、マネージャーのいじめにあうようになった。そのマネージャーは過去にもいつも誰かを標的にして、いじめていた。その矛先が私に回って来たのだった。電話にでても、私とは話さなかったり、月ごとの功績者のリストに、私の功績は載せなかったり等々。

 そしてついには、私の取った静脈栄養法の判断をめぐって、それは上司の許可を得ず、かってに進めたものだという理由の始末書に署名を迫られた。私は署名を拒否することもできたが、私の言い分を残したかったので、それをしたためて署名した。内容の詳細は今覚えていないが、それはそれほど逸脱したことでもなかったし、また、CNSCの資格を得るために得た知識を裏付けに、患者にはより適正であると自負する判断だった。ただプロトコル(標準治療)にはまだ入っていなかった。実際、その事件のすぐ後に、医師も含めた会議が重ねられ、結局、私の判断基準とその処置ががプロトコルに入った。

 とは言えども、プロトコルに入る前の私の行為が「不正行為」とされたことには変わりはない。そしてその始末書は、もう一度「不正行為」をおかせば、私の職は剥奪されるというものだった。もしマネージャーがもう一つ「不正行為」を見つけたければ、それはいとも簡単だ。以前ビザの件で解雇された時のように「服装規範」を持ち出せばいい。でも、マネージャーは私を直ぐに解雇しようとはしなかった。それは、私が通常以上に多いフロアの責任をもっていて、直ぐに代わりを見つけるのが大変だったからだろう。

 そういうわけで、私は生きた心地がしなかった。とにかく解雇される前に仕事を見つけたい、それだけだった。もうパートでもなんでもいい、とにかくそこを出たい。私は応募したり、面接を受けたりしていた。

 

モーニングリポートの英語に関して

 

 私の英語のおぼつかなさは、常に私の課題であるのだが、聞き取りが飛躍する出来事があった。病院や施設では、必ずモーニングリポートというものがある。各ユニットの看護師長か代表が前日やその時までに起こった主なことがらを、朝、医療チームのミーティングで報告する。ダイエティシャンもそのミーティングには通常参加する。

 私は、6つのフロア(ユニット)を受け持っていて、非常に忙しく、全てのフロアのモーニングリポートに参加することはできないので、どのモーニングリポートにも参加していなかった。すると、ある時マネージャーが私に、あるフロアのモーニングリポートに参加し、そればかりか、発言もして貢献しろと言ってきた。

 ちなみに、モーニングリポートの看護師たちの英語は、機関銃のように速い。病院でも施設でも、どこでもそうだ。多数の患者の出来事をゆっくり報告している暇もないし、モーニングリポート自体をはやく終わらせたい事情があるからなのだろうが。私は窮地に陥った。今までは、分かってもわからなくても、聞き流しているだけだったものが、意味のある合いの手まで入れなければならない。もう、一語一句聞き逃すまいと、耳を皿のようにして聞いた。これも私の首にかかっていると。

 すると、しばらくして、彼らの言っていることが分かるようになって来た。やたらに速いけれども、スラングを使っているわけでも、慣用句をちりばめているわけでもない。看護師のストレートで正しい英語がただただ速いだけなのだ。二倍速と例えたらいいだろうか。私は、ここぞと思うところをメモして、その報告後にすかさずコメントを入れることが出来るようになった。それ以来、正しい英語であれば、速くても問題がなくなった。

(続く)