44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊸

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

44歳から始まった私の試練の物語いかがだったでしょうか。読んでて疲れたという人もいました。私自身、生き残れたのが不思議なくらい。でも、どっこいちゃんと生きてますよ。前回のブログでもおわかりの通り、今も現役で働いてます!

 

著書より前回の続き

 

振り返って 

 

 1998年(平成10年)から留学が始まって今日まで22年が過ぎた。留学を思いついた1996年(平成8年)からかぞえると24年が経つ。あっという間に過ぎたと言いたいところだが、苦しい時は長かった。それらの体験を面々と、綴ってきたわけなのだが、今、公平で、高潔そしてユーモアがあるディレクターのビンセントの下で働いている。今彼が私の直接の上司であり、彼の織りなした約束事で仕事が進められる。安全で、安心、公平な職場だ。試練続きだった私だが、幸運の女神が最後に微笑みかけてくれたのだろうか。

 留学前、マクロビオティック一辺倒だった私だが、留学後現在に至るまで、栄養学的な新たな発見や理論、また様々な食事法にも触れてきた。今は一歩下がって、それぞれを吟味し、評価できるようになった。それでも、マクロビオティックが私の基礎をなしていることには変わりはない。何かわからないことが出てくると、マクロビオティックではどう教えていただろうと思いをめぐらす。マクロビオティックと米国留学で学んだ現代栄養学は、今の私の貴重な財産である。

 

後書き

 

 私は現在もニューヨーク州ウェストチェスター郡に住んでいる。1年ちょっと前まで、日本の新聞やテレビを見ることが全くと言っていいほどなかった。偶然に日本のデジタル新聞が読めることを知り、購読して読み始めた。そして驚いた。私が留学などしている間に大変なことが起こっていたのだ。就職氷河期とかロストジェネレーションという言葉は初めて知った。私が留学を試みていた頃と重なるのだ。バブルがはじけたことは知っていたが、その影響があまりにも大きく、20年以上経た今、それがより深刻な様相を帯びていることには思いも及ばなかった。そのころ私は日本の会社を辞めていたし、留学から就職までの一つ一つの節目で、まかり間違えば、その先はなく、日本に舞い戻っていた。そして私も(年齢的には当てはまらないが)ロストジェネレーションの一人であったかもしれない。とても人ごととは思えない。ロストジェネレーションへの政治的救済が進むことをを心より願っている。

 ダイエティシャン(RD)になるためのハードルも今はより高くなっている。総合成績GPAのほかに、DPD(Didactic Program in Dietetics、インターンシップに入るための必修科目)のGPA、科学コースのGPA も提示し、DPDのGPA は3.2以上と定められた。(私の時にはDPD のGPAが3.0以上ということだけだった)。インターンシップの授業料も私の時の4,874ドルから今は11,500ドルに上がっている。また2024年からは、インターンシップ・プログラムへの申請の条件に、修士号取得者であることが加わる。

 アメリカのビザ取得がずっと厳しくなっていることも知っている。私の時も大変だったが、その比ではないのないかもしれない。それでも、私にとっては最悪の事態をその都度、あがきながら、這い上がって来た。

  私は今67歳だが、70歳まで働く予定だ。そうすると今の職場で10年勤続になる。待ちきれないが辛抱しよう。日本の定年制度も変わったようで、65や70まで働くことも、珍しい事ではなくなってきているようだ。定年後、単身留学の学生たちに憩いの場所を提供するのが夢だ。その他にも、この体験をいかして、貢献したいことがあり、今その思いを温めている。

 そして今、未曽有のコロナ禍である。留学の様相がどのように変わるのかは、今は分からない。留学先で、授業がオンライン授業に変ったというニュースも入って来た。留学生が大幅に減少する予測もでている。だが考えようによっては、今が留学を夢見ている人々にとってのチャンスがもしれない。

 このアメリカへの留学・就職奮闘記が、留学のことで迷っている人、またアメリカでダイエティシャンになりたい人、熟年からの人生の選択を再考している人等々に、良きにつけ悪しきにつけ、何かのヒントになればと願っている。

(完)