44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊲

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

失職して結婚。何カ月も待ってやっとグリーンカードが取れた。インターンシップのクラスメイトが私を雇ってくれた。そのバーゲン・レジョナル・メディカル・センターは、後の私の運に繋がった。

 

著書より前回の続き

 

バーゲン・レジョナル・メディカル・センターのポジション

 

 労働許可証を待つ間に、就職のことはあれこれ考えていたが、一つ大きな希望があった。それは、インターンシップの時のクラスメートのマンディが、既にバーゲン・レジョナル・メディカル・センターの食物栄養部のチーフ・クリニカルのポジションについていたことだ。チーフ・クリニカルとはダイエティシャンのトップだ。施設によっては、トップがマネージャーであったり、ディレクターであったりもする。マンディは、インターンシップ時には既に修士号を持っていて、知識豊かで、また人間性豊かな包容力も兼ね備えていた。

 6月に労働許可証が下りるとすぐにマンディに電話した。マンディによれば、少し先に空きがでるので私が入れるとのことだった。そして、約束通り、彼女は私を雇ってくれて、

7月の末頃から私はそこで働き始めた。

 

バーゲン・レジョナル・メディカル・センターについて

 

 バーゲン・レジョナル・メディカル・センターは、ニュージャージーバーゲン郡が所有する、長期療養病棟、精神科病棟、救急病棟、そして外来からなり、全1070床を持つ大型の病院だ。主に長期療養病棟(約600床)と精神科病棟(約400床)からなり、救急病棟は20床程で、ほとんどが長期療養病棟と精神科病棟から緊急疾患で移送されてきた患者で占められる。

 ダイエティシャンは資格を持っているRDと資格のないダイエティシャンの半々くらいで、総勢8人位いた。その当時そこのRDは時給18ドルで、資格のないダイエティシャンは16ドルだった。時給は相場よりも安かったが、郡立の病院で、組合もあって安心感があり、社会保険は整っていた。マンディはチーフ・クリニカルとして、ダイエティシャンを統括していた。マンディの上に34歳の若いディレクターのビンセントがいた。ビンセントもRD なのだが、彼は主にキッチン・食料科を統括していて、ダイエティシャンとの直接的な関わりは少なかった。

 私はバーゲン・レジョナル・メディカル・センターで、2004年(平成16年)7月から2007年(平成19年)2月までの2年7カ月勤めた。時給が安いせいで(資格のないダイエティシャンを除いては)、ダイエティシャンの回転率は高かったので、私は比較的長く働いたことになる。その理由は、いくつかある。先ず、雇ってくれたマンディに感謝の念が強く、尽くしたかったこと、次に、履歴書をこま切れの履歴ではなく、定着して働いたことを示す美しいものにしたかったこと、そして最後に、修士課程を取り始めていたので、それに集中したく、転職等に神経を使いたくなかったことがある。長期療養病棟で働き、最後の約一年は、精神科病棟、救急病棟、そして外来(個人を対象にした栄養教育)を担当した。

 けれども、その間の2005年(平成17年)にマンディとビンセントは追われるように去って行った。それというのも、食糧・栄養部門が外部の会社に委託されたからだ。それに伴い、役職者が変わり、ビンセントの居場所はなくった。マンディの上には、経験のない女性のディレクターが配置された。

 7月頃だったか、ビンセントの送別会がダイエティシャンのオフィスで開かれた。ケーキを食べ終わると、一人また一人とそれぞれ仕事に戻って行った。ビンセントはそこに残っていた。事情が事情だけに、不憫にも感じた。ビンセントがそこにいる間は、送るものとして、付き合いたいという気持ちと、自分の将来のためにもビンセントの連絡先を確保しておきたいという気持ちがあった。遂に、皆が仕事に戻って行って、ビンセントと二人だけになった時、私は送別の意を述べ、そして彼の連絡先を聞いた。ビンセントは私に彼個人のメールアドレスを教えてくれた。

 その年の11月に、ダイエティシャンが属することになったその会社の大々的なパーティ―がバンケット・ホールで開かれた。マンディはその時既に、カリフォルニアにダイエティシャンのマネージャーの職を見つけていた。そしてそのパーティが彼女の最後になった。

(続く)