44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉟

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

念願の管理栄養士の資格試験、RD Exam に合格.管理栄養士/RD としての就職です。

 

著書より前回の続き。

 

RD としての就職(2003年・平成15年3月)

 

 早速RDとしての職探しを始めた。臨床ダイエティシャン(Clinical dietitian) になりたい。病院、リハビリテーションセンター、長期療養施設・老人ホームの空きを探した。一たび資格を持てば、職探しは一般職のそれよりずっと容易だと言える。一つの空きに何十人も何百人も応募するということはない。せいぜい数人だ。それでも、私の場合は語学のハンディがあるので、競争は厳しいと言えるのだが。

 それと、臨床ダイエティシャンとしては、長期療養施設・老人ホームよりも病院に人気がある。統計においては、長期療養施設・老人ホームの方が給与水準がよいにも関わらずだ。ある先生にそれがなぜなのかを聞くと、その先生は、人が死にむかっているのが陰鬱だからだという。その時私はそれを全く意に返さなかった。年取っていようと、若かろうと、患者は患者だと思った。

 いくつかの空きを見つけ、応募し、結局ニュージャージー州の JFK老人ホームのダイエティシャンの職を得た。マネージャーはフィリピン人のダイエティシャンだった。息子の嫁が日本人だということで、私に親しみを覚えたようだった。ビザの件も面接時に話した。スポンサーが負担する申請費用は後で返すとも付け加えた。すると、そのマネージャーは、こともなげに、サポートすると言ってくれた。ナースなどで、そのような例を経験しているらしい。気の抜けるほどスムーズにビザ・サポートを得られ、私の初めてのRD としての職が3月の下旬から始まった。

 

H1B ビザの申請

 

 H1B ビザとは、学士以上の学位保有者で専門職につく者に与えられる就労ビザだ。専門職の例としては医者、金融アナリスト、会計士、薬剤師、ITのプログラマーなどの専門技術者等が挙げられる。毎年の申請の受付開始が4月1日で、申請受付数が上限を超えた場合には、受付が締め切りになるので、その年によるが、申請受付締め切りが4月上旬のことが多い。

 つまり、4月1日から4月7日位までの間に職をもって申請しなければならないことになる。このタイミングは、考えただけでも至難だと思われた。それまでに移民弁護士の所を訪ねてなんどその事を聞いたことだろう。そこのスタッフには、うるさがられて、その時になったら、考えようというような対応になった。

 さて、3月下旬のこの時の私の状態は、5月半ばまでのプラクティカル・トレーニング・ビザで合法に働けて、かつ4月1日からの申請受付期間に直ぐ申請できるという幸運が重なった。条件も書類にも困難はなかったので、後はいかに迅速にそれらを進めるかだけだった。費用を上乗せすると、15日で発行されるという特急申請 (premium processing) という選択があったので、それも使った。かくして、私は4月20日に3年間のH1B ビザを手にすることが出来た。ビザの事を持ち出して首になった、1月の半ばから、RD examの猛勉強、合格、就職と瞬く間の、4カ月後のことだった。

 

JFK老人ホームでの仕事

 

 そんなわけで、私は、H1B ビザをもち、合法的に、RD としてJFK老人ホームで働き始めた。私の前にはフィリピン人の資格をもっていないダイエティシャンが働いていたが彼女はやめることになっていた。修士号ももっていて聡明なRD のジョセフィーヌは、週2・3日のパートで働いていたが、彼女も去っていった。時給は19ドルで始まり、一カ月後には20ドルにあげてくれた。但し社会保険はついていなかった。

 私は一階と二階の全ての入居者200人を受け持つことになった。これは異常に多い受け持ちだ。老人ホームではRD 一人に110-120人位の受け持ちが妥当と聞いているから、通常の二倍近くということになる。おまけに、栄養評価のシステムもなかった。体重が激減したり、激増したりしても、偶然に発見するか、見過すかで、システマティックなフォローアップは出来なかった。マネージャーのデボラは、日にひに私の見過しを意地悪く批判するようになっていった。

 そもそも長期療養施設・老人ホームのダイエティシャンの仕事は、MDS (minimum data set) コーディネーターによって作成された週毎のスケジュールに従って入居者の栄養評価をし、MDSにおけるダイエティシャンのセクションの入力をする。その間にも、入居者からのメニューの好き嫌い屋や注文があれば聞き、また食事療法が必要な場合には、本人か家族に食事療法の説明や教育をしなければならない。担当の人数が人数なので、それだけで精一杯で、体重変化のフォローアップ等はシステムもなく出来なかった(後に働いた施設ではシステムがあり、神経をすり減らさずにフォローアップができた)。

(続く)

 

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いよいよ、管理栄養士の資格試験、RD Exam です。

 

著書より前回の続き。

 

H1Bビザの話を持ち出して首に

 

 ひと月ちょっとしてから、マネージャーにH1Bビザの事を持ち出した。怪訝な顔をされたが、人事部に行くよう言われた。人事部長もそんな話は聞いていないと言った。それでも、おざなりに、何が必要なのかと聞かれたので、施設の年間収入等を書き込む書類と申請費用等だと答えると更に不快そうな顔をになった。

 それから間もなくして、マネージャーから仕事中に呼び出された。指定された部屋に訪れると、マネージャーともう一人、普段見かけない年配の管理職の女性がいた。そして私は、首を宣告された。理由は、栄養評価 (assessment) の記述が間違っているということと、服装規範 (dress code) に触れるということだった。記述の間違いということに関しては、私がある患者の急激な体重減少が浮腫に関係していると書いた。浮腫がひどいと大体利尿剤が処方され、激増していた体重が逆に激減する。言葉が足りていたかどうか、詳細は覚えていないが、そのケースもそうだった。私はそのように説明したが、二人ともダイエティシャンでもなく、全く意に介さないようだった。服装規範に触れたということに関しても、具体的な説明は何もなかった。私はいつも、ほとんどのダイエティシャンがそうであるように、白衣を着ていて、白衣の下は、シャツブラウスとスラックスだった。追い出すための行程なので、議論の余地はない。

 まるでアメリカのドラマや映画の中で起こるように、ある日突然首になって、荷物をかかえて出ていくという体験をしたのだった。だが、考えて見れば、私が求めたビザのサポートは、彼らにとっては、経営上のごまかし等がばれるかもしれないという脅威だったのかもしれない。だから、ビザによる理由などはおくびにも出さず、私を切り捨てることに徹したようだった。働き始めてから一月半位後の一月下旬の出来事だった。

 

RDへの最後のチャンス

 

 今から考えれば、そこでいつまで働いていても、ビザなしに将来はないわけだから、早く首にしてもらってよかったわけだ。職を失って考えた。そして考えた末の、私の緊急の計画は、一カ月間働かずに、RD Examの勉強だけに集中すること、そして資格をとり、職を見つけること。そして面接の時点でキチンとビザのサポートをもとめ、話を取りつける。そして、プラクティカル・トレーニング・ビザの有効期間内にH1Bビザの申請・取得だ。

 RD Examを一カ月後の2月22日とし、登録をした。それまでの一カ月の間、それまでに蓄積された何冊もの問題集を、何度もなんども繰り返した。これでだめなら諦めろと自分に言い聞かせた。

 

父の死

 

 こともあろうに、2月9日父の急逝の知らせのFaxを姉から受け取った。父は高齢ではあったが、取り立てた病気は患っていなかった。私はショックであるのと同時に、その時の状況を鑑みて、ピンチに陥った。目前に迫っている三回目のRD Examは、私に残された最後のチャンスだ。父のお葬式には出られない。でもそんなんことが許されるのだろうか。私はそう思いながら、直ぐに姉に電話した。姉は私の状況等は知らなかったのだが、まるでテレパシーで察したかのように、お葬式のために戻らなくてもいいと言ってくれた。私はその言葉に、感謝しきれない程に感謝した。

 だが、その後何年も、父への申し訳なさと、後ろめたさに苛まれた。親の葬式に出ないなんて人非人だと。久司先生が、僕も親の葬式には出られなかったというのを聞くまでは。

 

RD Exam 

 

 いよいよ運命を左右するRD Exam の当日だ。前日はよく眠れるようカフェインは一切とらず、早く床に入った。電話のコードも抜いて、不意の電話で眠りを妨げられないようにした。頭さえ冴えていれば、知識は十分に入っているはずだから、記憶の引き出しから取り出せるはずだと信じた。

 試験が始まった。今度は時間をかけ過ぎずに次々と進むことにした。125問を過ぎても出題は続いていた。少し不安がよぎった。125問を過ぎると、出来具合が良ければ、早く出題が止まるというのを知っていたし、また実際、合格と出て出題が止まったという人の話も聞いていた。出題は延々と続いた。ついに145問目まで来て、出題は止まった。あ~と思う間の次の瞬間に「合格」と出た。合格!!! ついにやった。26点の合格だった。1998年(平成10年)の一月にアメリカにやってきて、四年後の2002年(平成14年)2月22日のことだった。

 

RD Examの合格率

 

 統計によると、RD Examの初回受験者の合格率は約70%だそうだ。二回目三回目と受験するごとに、合格率は下がってゆき、受験回数に関係なく、全体の合格率は約50%だ。

 そしてもう一つの現象がある。アメリカのRDとDTR(資格のあるダイエット・テクニシャン)の組織ADN (Academy of Nutrition and Dietetics)の下に、CDR(Commission on Dietetic Registration)と言う組織があり、RD exam やその他(プロフェッショナル・ポートフォリオ等)を管理している。そのCDRと外国のダイエティシャンの組織の間に協定があり、カナダ、オランダ、フィリピン、アイルランドのダイエティシャンが、もしアメリカでRD になりたければ、インターンシップを義務づけられることなく、直接、RD Exam を受ければよいことになっている。

 その協定を利用してRD を目指すフィリピンからのダイエティシャンがアメリカには沢山いる。私も、老人ホームで、資格のないフィリピン人のダイエティシャンにかれこれ10人位会っただろうか。老人ホームでは、資格のないダイエティシャンも働くことが出来るのだ。勿論彼らもRDを目指してRD Exam を受けている。だが、フィリピン人のRD exam の合格率は7%だと聞いたことがある。なぜなのか。インターンシップがそれほどまでに、RD exam に大きな役割を占めているのか。

(続く)

 

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生活するためにとりあえず就職。そして資格試験に挑みます。

 

著書より前回の続き。

 

4章 就職

 

インターンシップ後の始めての就職

 

 インターンシップが終わるころから、皆は次々と就職を決めて行った。何故か皆、ほとんどが臨床ダイエティシャンを目指す。私もそうだった。病院で働きたい。

 その時点で貯金は底をつき、窮状を察した姉が送ってくれた50万円だけが命の綱だった。なので私はすぐに働き始めなければならなかった。かと言って、皆のように資格を取る前にダイエティシャンとして雇われる自信は全くない。資格を取るまでのつなぎとしてアプローチしたのは、マウンテンサイド・ホスピタルの食料栄養部(Food and Nutrition services) の通常ダイエテックと呼ばれるダイエット・テクニシャン(Diet Technician)の仕事だ。

 マウンテンサイド・ホスピタルの食事療養部門のマネージャーのアナを知っていた。それというのは、そこの病院食堂のウェートレスのアルバイトをインターンシップの前に短期間したことがあるのと、インターンシップの期間中は、糖尿病部門と腎臓透析部門のローテーションがマウンテンサイド・ホスピタルでであったためだ。アナは優しい性格で、彼女のしゃべる英語が、ポーランド移民としてのたどたどしいと言える程の、強いアクセントがあったため、余計に親しみが持てた。

 アナは、ダイエテックのパートのポジションに私を直ぐに雇ってくれた。ダイエテックの仕事は主にメニューの管理だ。朝、病棟の患者に選択式のメニューを配り、昼頃それを回収し、それをそれぞれに指定された食事療法に従って、調整をする。例えば、低塩食の患者の選択品目の塩分の量が制限を超えていれば、それを削ったり、他の品目に入れ替えたりする。

 はじめの三日間はトレーニングだった。正社員のダイエテックと共に、病棟を回り、調整も手伝ってくれた。四日目が私のダイエテックとしての旅立ちの日で、始めて一人で病棟を回った。そこで出会ったのが現在の夫のスティーブンだ。彼にとっては、その日が最後で、翌日には別の病院に移る予定だった。彼は、彼の取り組んでいたプロジェクトの日本語訳を私に手伝って欲しいということで、私の連絡先を聞いてきた。十日程して電話がかかって来た。それが始まりだ。 

 そこで働いているダイエティシャン達は私を怪訝な目で見ていた。それもそのはず、インターンシップを終えてから、ダイエテックとして働きだす人は先ずいない。多くがダイエティシャンとしての職を得て、同時に資格を目指す。私は、資格を取ることが先決だと考えていたから、ダイエテックとして気にせずに働いていた。

 

初めての資格試験

 

 ダイエティシャンの資格試験(RD exam)は、90分で125問を解く選択式だ。コンピューターの自動操作で、正解がある程度に達すると、90分以内に出題が止まり、パスする。不正解の回答をすると、関連の少し易しい問題が出題されて、最高145問まで出題される。そして、合格か不合格の結果がでる。

 8月の末に受けた初めての資格試験の結果は不合格だった。25点の合格点を一点下回った24点だった。コンピューター操作なので、どのようにその点がつけられるのかはわからない。満点が50点であるということも、最近まで気が付かなかった。私の知る限りでは、合格者の点数は大体25点から27点くらいで、一人28点というのを聞いて感嘆したことがあるほどだ。

 落胆している暇はない。RD Examは45日を置けば、何回でも受けられる。45日後を目指して、問題集と、オンラインの問題集も購入してまた反復し始めた。

 

ダイエティシャンとしての初めての就職

 

 11月の始めに二回目のRD Exam を受けた。今回は、ダイエティシャンの先輩が試験の時、時間があり過ぎていちいち腕組をしたというのを聞いていたので、私も時間をかけてゆっくり回答することにした。すると、残り15分と言うところで、問題が沢山残りすぎてしまい、警告として画面全体が赤く変わった。それにはもうビックリして、心臓がドキドキし始めた。残りの15分で確か50問くらい(?)残っていたので、私はパニック状態になり、問題も答えも読めていない状態で、闇雲に答えを選びクリックしていった。そして当然の結果として、スコアは20点に下がり不合格だった。これにはショックだったが、落ち込んでいる暇はない。更に別な問題集を、見つけたので購入し、また合格した友人の使った問題集のコピーも加えて、勉強を続けた。

 そうこうするうちに、プラクティカル・トレーニング・ビザの期間は半分も過ぎている。ダイエティシャンの職を得て、早く次のビザの手続きをする必要がある。資格は取れると信じて、ダイエティシャンの職の空きも探し始めた。

 そしてついに、ニュージャージー州の500床以上の大型の老人ホームにおけるダイエティシャンの職を得た。ビザの事は面接の時に持ち出さなかった。私の考えているビザは、専門職ビザ、すなわちH1Bビザで、スポンサーによる書類と申請費用のサポートが必要だ。そんな面倒な事を言えば、嫌がられて雇ってはもらえないと思ったので。良い仕事ぶりをみせて、気にいられてから、ビザの事を話そうと思っていた。入居者を本来の二人部屋に三人押し込んで、暴利をむさぼっているように見えた施設だったが、ベストを尽くして仕事をした。

(続く)

 

 

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アメリカの管理栄養士、ダイエティシャン、になるために必須のインターンシップを終えて、いよいよ資格を目指します。

 

著書より前回の続き。

 

インターンシップの卒業式 (2002年・平成14年6月) 

 

 インターンシップの卒業式とパーティーは6月の半ばに行われた。10人のインターンが全員卒業できた。前年度のプログラムでは、一人が脱落している。実際、我々の代でも、3カ月を過ぎたころ、一人がもうやめると言いだしていた。それは、インターンシップが始まる前に出された膨大な宿題に焦って、一緒にやろうと言ってきた例のテリだった。でも、インストラクターも私達インターンも、彼女に続けようと励ました。そしてまた、その時に取っていた修士課程のコースの期末試験勉強を私とテリともう一人のクラスメートの3人でして、彼女を力付けた。

 インターシップの卒業式には祝福する家族らも出席する。私には家族がいない。私は、大学の学士号の卒業式の時と同様に、エレンに出席してもらえるかどうか聞くと、また快く承諾してくれた。式では、インストラクターから、一人ひとりに合った賞のボール紙で作られた微笑ましいメダルが送られた。私には、「傑出賞」(Outstanding Award)のメダルが贈られた。

 

ADNによるインターンシップの優秀賞への推薦

 

 ダイエタティック・インターンシップの内容の規定も、ダイエティシャンの資格試験も、The Academy of Nutrition and Dietetics(ADN)という組織によって確立されている。そして州ごとのANDから、毎年一人のダイエタティック・インターンに「傑出インターン賞」(Outstanding Dietetic Intern of the Year Award)が贈られる。インストラクターは私をニュージャージー州の傑出インターン賞に推薦してくれた。理由は、熱心な学びやその能力のほかに、マクロビオティック等の食文化への興味が新しい世代の多様性に貢献できるだろうというようなものだった。残念ながら、受賞には至らなかった。

 

ラクティカル・トレーニング・ビザ

 

 私は1998年(平成10年)に5年間のスチューデントビザでアメリカに来た。実際には、そのビザ期間は、カルフォルニアの留学準備コースの期間を含めた1997年(平成9年)5月21日から2002年(平成平成14年)5月15日までだ。ビザのことなどすっかり忘れて無我夢中でやって来たのだが、気が付いた時には、スチューデントビザの終了とインターンシップの終了とがほぼ同時だった。

 スチューデントビザの終了後には、その専攻分野の関連の就労が一年間許されるプラクティカル・トレーニング・ビザがもらえる。2003年(平成15年)の5月半ばまでだ。アメリカに残りたいのなら、その期間中に就職を決め、次のステップのビザ、すなわち、専門職ビザのH1B ビザを取るしかない。

 

資格を目指して

 

 晴れてインターンシップを終え、「登録資格者」(registration eligible)と呼ばれる、ダイエティシャンの資格試験が受けられる資格を得た。そしてその試験に受かれば、公認管理栄養士(Registered Dietitian)になれる。その資格に関していうと、ダイエティシャンの資格が必要な分野と特に必要のない分野とが ある。病院の臨床ダイエティシャンとして働く場合には必要だが、新卒(インターンシップを終えた直後)の場合は、その職で働き始めてから半年以内に資格を取ればいいことが恒例だ。老人ホームまたは長期療養施設の場合では、資格は必要とされていないが(州毎に規定が違い、例えばニューヨーク州では州で発行される資格が必要)、資格があるとなしとでは、同じ仕事をしても給与に差がある。

  私は英語をうまくしゃべれない。だから、就職の面接を通過するには、ダイエティシャンの資格は絶対に必要だと常づね思っていた。プラクティカル・トレーニング・ビザの期間は一年しかない。その間に、資格を取って、就職をし、ビザを取らなければならない。私は、 ダイエティシャンの資格試験 ( RD Exam) を少しでも早く受けたかった。

 実は、インターンシップが始まったころ、RD Examの練習問題のフラッシュカードがあることを知り、手に入れていた。インターンシップが終わったらすぐにでも試験を受けようと思って、毎日少しづつフラッシュカードの問題と回答の暗記を試みていた。そしてその計画通り、インターンシップが終わったあと直ぐの、8月の受験登録をした。

(続く)

 

 

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アメリカの管理栄養士、ダイエティシャン、になるために必須のインターンシップも終盤に入ります。

 

著書より前回の続き。

 

雑用を課される

 

 先輩インターンからの情報で、フィールドワークでは理不尽な要求をされることもあるとは聞いていた。だから、そんなことがあっても、それもインターンシップの修業だと考えると決めていた 。

 そしてそれが起こったのは、最後の小児科分野のローテーションでのことだ。計二週間の内の何日目かに、何種類もの色違いのチラシを何室もある診察室の壁に張り巡らせる仕事を言いつけられた。前のチラシ等は剥がして、新しいチラシをホチキスで壁に張り巡らせる仕事は、単純な作業だが、時間がかかった。そして、その日予定されていた、学ぶべき課題は手てつかずのままになった。

 案の定、残された課題を終えるために、私の日程はさらに追加された。それは最後のローテーションだったので、皆は次々と終了している間に、まだ終了できずにいたのは私も含めて三人だけだった。そのため、私は、後述するスタッフ・リリーフの後にも、その小児科のローテーションに戻り、日程をこなす羽目になった。

 

スタッフ・リリーフ

 

 スタッフ・リリーフ(Staff Relief)とは、全てのローテーションを終えた後で、3週間、ダイエティシャン(RD)の仕事を、ダイエティシャンの指図なしに完全に任されてやる期間のことだ。勿論、最終的には、ダイエティシャンが確認して連著する。スタッフ・リリーフの場所は、それまでやって来たローテーションの中から、自分で選び、交渉して決める。

 私は、アルバイトも少ししていたリハビリテーションセンターのインストラクターにスタッフ・リリーフの希望を伝えると、難なく受け入れてくれた。リハビリテーションセンターには、脊髄損傷、脳損傷、神経疾患、脳卒中、膝上・膝下切断、股関節置換,膝関節置換、心臓疾患等々、様々な患者がいる。ダイエティシャンは、それらの患者の栄養評価と介入、そして退院後を展望した栄養教育をする。

 そこは慣れた場所であり、またインストラクターも私に好意的であったので、3週間の工程はスムーズに行った。

 

インターンシップのその他諸々

 

 低学年児童に対する栄養教育で訪れた学校は、低所得層の移民の多い地域で、子供たちは、私のことをミス・ユーコと呼んで慕ってくれた。学校や病院のフードサービスの管理も体験した。諸々違う分野で働くダイエティシャンの姿を実際に見ることができた。 常にそのローテーションで出された宿題やら、課題やら、プロジェクトに終われ、前半は特に、悲鳴をあげるほど忙しかった。他のインターンも同様で、デートを楽しむ暇もなく、ボーイフレンドが彼女のインターンシップが終わるのを待ち焦がれているというのも聞いた。ともあれ、結果的には、無事9カ月を通過することが出来た。

 木曜日のインターンが集合するクラスの日には、物静かで聡明なパトリシアといつも一緒だったので、わたしは、孤独でも寂しくもなく、インターンシップの期間が楽しいものとなった。彼女は他の大学を出て、修士も既に取っていた。その後に挙げられた彼女の結婚式には、私を招待してくれた。 

 他のインターン達は、そのスタッフ・リリーフの場所でその後の就職の話を取りつけたりもする。現に、スタッフ・リリーフを終えたその施設で、直ぐに働き始めたインターン仲間がいる。でも私にはそれは、語学への自信のなさで、絶対にできなかった。キチンと資格を取ってから、その資格を武器に職探しをしようと思っていた。

  スタッフ・リリーフが終わり、もう卒業パーティーが真近だというのに、私はまだ完了していない小児科分野のローテーションに1・2日戻ることとなった。そして、やるべき課題を終えた後、私に雑用を押し付けたインストラクターは、そんなことはすっかり忘れているかのように、何故か恩着せがましく、私が及第したことを示す書類にサインをした。

 

インターンシップを終えた後の私の英語力

 

 インターンシップの最後のクラス・ミーティングを終えた後、パトリシアと学内のカフェでくつろぐことにした。そこに他のインターン二人も加わり、計四人で他愛のないおしゃべりをして、時を過ごした。話の内容は、就職のことや資格試験のことが主だったと思う。一時間程して話もつき、皆席を立って別れた。そして私に一つの驚愕が残った。

 その一時間中、皆の話している内容が一つもわからなかったのだ。私は、3年間、栄養学の専門コースをとり、アメリカの学士号を取った。一年近くのインターンシップにも入り、終了した。一応何とかやって来れたわけだ。でも、思えば、それらの中で触れてきた英語は、音節(syllable) のはっきりしたプロフェッショナルの英語だった。仲間同士の会話は、ずっと速く、音節もはっきりしないし、日本人には馴染みのない慣用句も多い。

 時々私に話かけてくれる時は私向けに話す英語のようで、わかった。まるで大学生の中に混じった幼稚園生のようだった。

 その生の速い英語に何とかついて行けるようになったのは、後述する、その後の修羅場をくぐってからのことだった。

(続く)

 

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今回も、アメリカの管理栄養士、ダイエティシャンになるために必須のインターンシップについての諸々です。

 

著書より前回の続き。

 

インターンシップに付随した修士課程のコース

 

 初めに取った、秋学期の修士課程のコースは「栄養学における新しい発見」(New Findings in Nutrition)で、栄養学の最新の記事を読み、内容を分析して、栄養と健康について学ぶというものだった。課されたプロジェクトは、各個人が自分で選んだ最近の記事を分析して、内容をクラスに発表するというものだった。私は、乳がんと大豆食品の関係の論文を選んだ。成績はA-だった。

 二つ目の春学期のコースは、「食物と栄養の諸問題」(Food & Nutrition Issues)だった。消費者、食品業界、政府そして栄養学から迫る食物と栄養の諸問題。やはりプロジェクトがあり、わたしも、地元の市長にインタビューした。私が何の課題を選んだか今思いだすことが出来ないのだが、成績はAだった。とった単位は、もしそのまま修士課程に進めば、必要単位数に生かすことができる。

 

手書きが読めない

 

 フィールドワークの一番始めに直面した困難があった。それは、病院の内科外科のフロアで働くダイエティシャン(RD)の仕事を学ぶ時だった。ダイエティシャンは患者の栄養評価をして、病状に即して介在、そして患者または家族へ栄養教育をしていく。栄養評価は、年齢、性別、身長、体重、体重の変遷、食物アレルギーの有無、家庭での食事の傾向、便通状態、病歴、血液検査等の結果、医師の診断、処方箋、現在の治療、治療の経過、予後等々のデータを先ず集めなければならない。それには先ず、患者のカルテを目て、手早にデータを拾っていかなければならない。患者へのインタビューはその後だ。

 今と違って、当時は、検査等の結果以外は、大半が手書きだった。そのカルテを見たときに私は愕然とした。それは医師の手書きの殴り書きだった。私にはまったく読めなかった。英語のネイティブスピーカーなら、推測などで私よりもっと読めるのだろう。でも私には無理だった。私の努力の及ばないところだった。その時点で、インターンシップの行き詰まりを感じ、絶望的になった。でも、その一方で、ここでインターンシップを頓挫させるわけにはいかないと強く思った。どうしたらいいのか。私は、僅かにある印刷した文字にすがった。読めない手書きがなんと書いてあるのか、人に聞いたりもした。ページを前後に行ったり来たりしながら、私のデータ集めはひどく時間がかかった。

 後にカルテは徐々にコンピュータ化されて、2014年からは、コンピュータ化は義務付けられるようになった。その理由は、記録へのアクセスが容易であることや、より安全に保存できること、その他諸々挙げられているが、判読不明な手書きによるエラーをなくす、ということも挙げられていた。私だけではなく、英語のネイティブスピーカーでも、正しく読めずに、間違いをおかしていたことが分かって溜飲が下がった。

 

褥瘡(床ずれ)巡回 (Wound round)

 

 長期療養施設のローテーションに入った時のことだ。長期療養施設においては、患者の多くが高齢で、長期に渡る入院滞在のため、褥瘡(床ずれ)ができることが多い。そのために、通常の医療ケアのほかに、看護師を中心にした褥瘡チームが存在する。そのチームにはダイエティシャンも含まれている。褥瘡チームは、週一回、褥瘡のある患者のリストに従って、巡回し、一人ひとりの褥瘡のサイズ・深さを測り、また治療法の決定、修正をしていく。ダイエティシャンの役割は、それらを記録することだ。

 長期療養施設のローテーションに入って何日目かに、その褥瘡巡回があった。インターンもダイエティシャンのしていることを観察するために、ついて回る。褥瘡の進行度には、深さ判定が不能な場合をのぞいて、1度から4度に分類される。1度はまだ皮膚が赤いだけで、傷口にはなっていない。2度から4度までが傷口としての重症度で分類されている。その4度は、骨にまで達している状態だ。

 私の初めての褥瘡巡回で、褥瘡4度に遭遇した。チームの皆は淡々とやるべき作業をしている。私もプロとして、その傷口を凝視した。何故か全てが緑がかって見え、僅かに血の気が引くような気がしないでもなかったが、私は平気な顔を装っていた。巡回が終わったあとで、インストラクターから、大丈夫かと聞かれ、わたしが顔面蒼白だったことを知った。

 (続く)

 

 

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今回は、アメリカの管理栄養士、ダイエティシャンになるために必須のインターンシップにについてです。

 

著書より前回の続き。

 

ダイエタティック・インターンシップの始まり

 

 ダイエタティック・インターンシップは2001年(平成13年)の9月10日月曜日から始まった。私達は6月に既に顔合わせをしていたので、初日は、宿題の提出、これからのスケジュールの説明、二組のグループ分けと緊急連絡網の説明、早速の新たな宿題等だった。課されていた膨大な宿題は、皆何とか終えていた。多分、皆工夫を凝らして、互いに写しあったりもしたのだろう。

 

9.11アメリカ同時多発テロ事件

 

 始まりの期日をはっきりと覚えているのには理由がある。それは二日目のことがあるからだ。二日目の2001年9月11日火曜日、前日に課された宿題も終えていたので、多少の余裕と緊張のなかで、マリアの授業を受けていると、8時半ころだったか、キャロルが顔色を変えて、教室に飛び込んできた。ニューヨークシティのワールドトレードセンターに謎の飛行物体が突撃したということだった。それは、後から知ることになるが、9.11アメリカ同時多発テロ事件のことだった。授業は即中止となった。皆で、学生食堂の大型テレビで、生中継の報道を見た。画面のビルからは、もくもくと煙が出ていた。他のクラスも皆中止になったようで、学生食堂は学生で一杯だった。その生中継を見ているうちに、その画面の中の、ビルがみるみる垂直に崩れ落ちた。理解しがたい光景で、皆の驚きの喚声が上がった。

 報道は延々と続いていたが、私の頭の中では、明日の宿題やクイズのことがよぎって、落ち着いてテレビを見ていることが出来なかった。大半の学生はテレビを見続けていたが、私はアパートに戻った。テレビをつけると、報道は続いていた。私は、後でハイライトで見ることにし、テレビは消した。

 その後、インターンシップで病院をめぐることになるのだが、テロ事件に関連した爆弾予告にしばしば遭遇した。また中東辺りから来ている医師も少なからずいて、それらの医師同士が互いにひそひそ話をしているのをよく見かけた。

 

ダイエタティック・インターンシップのカリキュラム

 

 モントクレア州立大学のダイエタティック・インターンシップは9カ月のパートタイムプログラムだ。週3日がフィールドワークで、4日目は半日のクラスだった。そのほかに、修士課程のクラスを一学期に一つづつ、計二クラス取らなければならない。

 フィールドワークは、以下の分野に実際に赴いて、そこで働いているダイエティシャン(RD)に学ぶ。それは、病院の内科外科、リハビリテーション、腎臓疾患(腎臓透析)、長期療養施設、糖尿病管理指導、集中治療室、妊婦と栄養、リサーチ、食糧援助プログラム、初等教育での栄養教育、衛生管理、学校給食、病院食、病院食の管理、ウェルネスセンター、そして小児科等だった。リサーチだけは、学内の教授のクラスで、学術論文の構成、書き方等を学ぶ。

 評価はそれぞれのローテーションの現場の指導者が、いくつもの側面を問う所定の書式に従ってつける。そしてそのローテーションが合格か不合格かも。

 そして、修士課程のコースを9月からの秋学期に一つと、1月からの春学期に一つ取らなければならない。修士課程のコースは木曜日の夜で、週一回、3時間の授業だった。

 

ダイエタティック・インターンシップの一日

 

 6月にあった、初めての顔合わせのミーティングの時にインストラクターから言われたことは、インターンシップを成功させるには、「いい車を持つこと」ということだった。その意味は後から分かった。高いブランドの車を持てという意味ではない。故障しないで、ちゃんと走る車が必要だという意味だ。その意味を実感したのは、フィールドワークのローテーションが始まってすぐのことだった。

 ローテーションは、キャロルとマリアが、インターン一人ひとりのスケジュールを作成しているので、それに従って行けばいいのだが、場所は車で30分から一時間位までの範囲で散らばっている。新しいところに行く前には、道路地図をを調べて、迷わず行けるように準備は怠れない。それ以前には、新しい所へ行く時には、事前に調べるだけではなく、実際に行って確かめたりしていた。だが、インターンシップにおいてはそんな暇はない。スケジュールは翌年の6月までびっしり詰まっている。遅刻等できないのは当たり前だし、もし車が故障して日程がこなせなければ、そこでの合格点はもらえない。それでも、次の日程が詰まっているので、進まなければならない。それが、いい車を持てと言う意味だった。

 ダイエタティック・インターンシップのプログラムの、始めの一週間だけは、クラスの講義だったが、その後フィールドワークは直ぐに始まった。それぞれのフィールドワークは、週3日、1日8時間で、同じ場所で1-4週間続く。週3日、月火水は現場で学び、4日目の木曜は半日で、インターン生がクラスに集合し、それぞれが学んだことを報告し、問題点等を討議しあう。現場の指導者の中には意地の悪いやからもいる。そんないじめのような扱いをどう切り抜けるかを討議されたこともある。そして、臨床系の各々のフィールドローテーションの後には、「事例研究」(Case Study)が課された。

 また、現場からも、宿題や課題を課される。現場は大体朝8時から午後4時までなので、朝6時頃起きてしたくをする。だから、現場からの課題は、帰った日の夜やるしかない。金曜日は休みなので、少し息抜きができた。

 プログラムの一環として組み込まれている修士課程のコースは木曜の夕方からなので、午前中のクラスの後一旦帰宅して出直した。

(続く)