44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで➅

 

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

著書より、前回からの続き

 

ボストンのクシハウス

 

 ボストン郊外にあった久司先生ご夫妻の家は「クシハウス」と呼ばれていて、もとは、カトリックの女性教徒の大学として使われていたという、石造りの荘厳な邸宅だった。部屋がいくつもあり、1970年代前後には、マクロビオティックの「スタディ・ハウス」として、若者達が常駐していたと聞く。私が「マクロビオティック・サマー・カンファレンス」に参加する時に、宿泊させて頂いた時にも、日本人やアメリカ人が複数滞在していた。宿泊も食事も無料な代わりに、家の手伝いをする仕組みで、「ハウスマザー」と呼ばれるチーフがそれぞれの滞在者に家の手伝いの役割を決めていた。

 玲子さんと会ったのは私が「マクロビオティック・サマー・カンファレンス」に参加する前にクシハウスに立ち寄った時だ。彼女もまた「マクロビオティック・サマー・カンファレンス」に参加する前にクシハウスに数泊していた。だが彼女の場合は、カンファレンスの後にまたクシハウスに戻り長期滞在し、久司先生の家の中のオフィスで働くことになっていた。久司先生のオフィスでは、アメリカ人と日本人が各々一人づつアシスタントとして働いていた。日本人アシスタントは、日本からの来客の世話や、日本関係の仕事の手伝いをしていた。

 私は、1990年(平成2年)から1992年(平成4年)まで、毎夏「マクロビオティック・サマー・カンファレンス」にボランティアとして参加した。1993年(平成5年)は、マクロビオティック創始者の故桜沢如一先生の生誕百周年記念の年だった。その記念行事は、日本で日本CI協会主催で秋に行われることになっていた。私はその行事の準備を手伝ったりして参加し、その行事に的を絞りたかったので、その年の夏はアメリカの「マクロビオティック・サマー・カンファレンス」には行かないことにした。玲子さんから連絡があったのは、その年の春ごろだったと思う。玲子さんは、その時ボストンの久司先生のオフィスで働いて既に三年を経ていた。そろそろそこを出る予定だと言う。彼女の後任として、引きついでもらえないかという話だった。嬉しい話だったが、でも何の滞在資格で?ビザなしだと三カ月、観光ビザを取れたとしても六カ月が限度だ。アメリカを二度と出ないと決めて居続けるのであれば、話は別だが。ビザなしで、アメリカを三カ月毎に出たり入ったりするのには限度がある。一体何をしているのか入国審査で疑われる。就労ビザの可能性は?久司先生と話し合うしかない。久司先生の秋の来日を待った。

 来日した久司先生ご夫妻に会い、玲子さんの後任として働くことにも喜んでもらえて、アシスタントとして働く際の滞在資格について話し合った。久司先生の言うのには、ニューヨークにある日系のKホテルを買う予定なので、そこで働くという名目で就労ビザが取れるだろうと言うことだった。そしてとりあえずいらっしゃいという感じだった。

 私は会社で正社員として働いていた。その時の会社は外資系の学術出版社で、医学誌のレイアウトをしていた。40歳になった年だ。確かに、会社の規模縮小の話は出ていた。でも決まっていたわけではない。私は迷った。柔軟さと前向きな提案で、会社と交渉すれば、何とかなりそうな感もあった。それとも、そのような交渉等はせずに、これをよい機会にきっぱり辞めて、渡りに船と、ボストンに行くべきか、、、久司先生の就労ビザの話には舞い上がったが、でも万が一、日本に戻らなければならなくなったら、、、日本で、40を過ぎて、一度会社を辞めたら、同じような職に戻れる見込みはあるだろうか。ノー、まずない。重大な選択だ。不安はぬぐい切れなかった。

 日本のマクロビオティックの先生の中で、唯一親しく話の出来る友井先生を訪ねた。私の迷いを話した。友井先生は、あまり深刻には捉える様子はなく、「為せば成る」と呟いた。そのつぶやきで私の気持が固まった。会社を辞め、翌年の1994年(平成6年)の春に、結局観光ビザもとれずに、ビザなしでボストンに向かった。(続く)