44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで⑬

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

今回は、最も難関と思われた学生ビザの取得の件について語ります。

 

著書より前回の続き

 

学生ビザの申請

 

 1997年(平成9年)の春、留学手続きは最終段階に入った。問題の学生ビザの申請だ。先にも述べた通り、不法滞在の経歴を持つ私の、ビザを得られる可能性は無きに等しい。大学入学許可証は勿論のことだが、そのほかに追加資料として、弁護士事務所が示唆した、三つの条件を満たさなければならない。すなわち、世界的に著名な人からの推薦状をもらうこと、政府関係者の人からの推薦状を二通そろえること、そしてもう一つは、留学後の専攻科目に見合った、約束された職とその給与の明示だ。それらを満たしても、ビザが下りる可能性は20パーセントに上がるだけと言われているのだが。とにかく可能性を信じてやれるだけのことはやってみようと思った。それと、玉木さんが私の不安などまるで意に介さないかのように、淡々と事務手続きを進めてくれるので、私の不安は半減していた。

 一つ目の、世界的に著名な人からの推薦状は、前述の通り久司先生からもらうと決めていた。久司先生に連絡して、このことを話すと、難なくオーケーしてくれた。

  二つ目の、政府関係者の人からの推薦状を二通そろえることにつても、 久司先生に相談した。当時、国連に勤務していた北谷さんの名前が直ぐに上がった。北谷さんは末期の胃がんを久司先生によるマクロビオティックの指導で治した人だ。それから、もう一人、久司先生と親交のあった、アジア留学生協力会の専務理事であった笹川さんの名前も上がった。アジア留学生協力会は日本政府の外郭団体なので、政府関係者という条件に見合う。私は、クシオフィスでアシスタントをしていた関係で、その二人ともに面識があったので、この推薦状の件をお願いすると、快く引き受けてくれた。

 最も問題なのは、三つ目の留学後の専攻科目に見合った、約束された職とその給与の明示だ。これは難題だ。一体だれが、そのような条件を満たすことができるのだろう。将来を嘱望された研究者だろうか? 私にとっては、それは、弁護士事務所があたかも、20パーセントという可能性の見返りをちらつかせるために、到底満たすことのできない、無理難題を掲げてたとしか思えなかった。だが、腹を立てても仕方がないし、この難題の解決をあきらめて、それまでのすべての努力と結果をご破算にするわけにも行かない。考えに考えた。

 その時私は短期間ではあるが、久司先生の日本における新規マクロビオティック・ストアのプロジェクトのお手伝いをしていた。そのプロジェクトのスポンサーは大手清涼飲料水会社であった。それで、そのプロジェクトの営業部長に、架空の話として、将来のポストとそれに見合う給与の手紙を頼もうと考えた。営業部長に話をした。その突飛な話に難色を示したことは言うまでもない。だが、久司先生の肝いりで、そのプロジェクトに携わっている私の立っての願いということで、やむなく承知してくれた。内容は、米国留学後は、留学で得た栄養学の専門知識を生かし、将来の食品開発に当たる職に、しかじかの給与で雇う、というもので、会社のロゴ入りのレター用紙に書いてもらった。勿論、その手紙と引き換えに、その内容は、学生ビザを目的としたものであり、実態はなく、その内容を求めるものではないということをしたためた手紙を部長に渡した。

 こうして、通常の学生ビザ申請の書類の上に、弁護士事務所の示した三つの条件を満たす書類を加えて、学生ビザの申請がなされた。

 それから、一か月位してからだろうか。玉木さんから連絡があり、学生ビザが下りたという。玉木さんには、いつも頼り切りで、大船に乗ったような安心感があり、心配はあまりしていなかったものの、この学生ビザの受領は夢のようであった。パスポートに貼り付けられた学生ビザは五年間有効であった。これも私の想像を超えるものであった。私は、この留学を編入学で専攻科目の二年間と考えていたから。わたしは、この五年間の学生ビザの価値と重みをズシリと感じた。実際、この五年間に加えて、専攻科目関連の職で働ける、一年間のプラクティカルトレーニングビザの期間を合わせると、計六年間のビザということでもあった。(続く)