44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉗

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

いよいよ、管理栄養士(ダイエティシャン)になるために必須の過程、インターンシップについてです。

 

著書より前回の続きです。

 

ダイエタティック・インターンシップの申請

 

 ここまでくる道のりの途上では、ダイエティシャンを目指すかどうかの迷いの時期もあった。二年目(1999年)の春学期が終わった時だ。まだまだ先が長くて見えない時期だったので、毎日の辛さ、苦しさ、そして不安に私は押しつぶされそうだった。クラスメートが前年に「基礎有機化学」につまずいて、専修を「ダイエタティクス」から「一般栄養学」に変更したことが記憶にあり、私も逃げ道として、常にそれが頭にあった。そして私も「ダイエタティクス」から「一般栄養学」に変更しようと決意して、教務の窓口に赴いた。すると、担当の女性スタッフが、「ダイエタティクス」のほうがずっと価値があるから変えない方がいいと言う。彼女の強い信念で、変更はしてくれないような雰囲気だった。私は励まされたような、または押しきられたような状態で、で窓口を後にした。今から考えるとあの時の女性の助言で私の運命が変わった。あの時変更していたら、ダイエティシャン(RD)への道はなかった。感謝の念に堪えない。

 最終学期で取った「ダイエタティクス・セミナー」のクラスでは、ダイエタティック・インターンシップの申請の仕方をきちんと指導してくれるのでよかった。勿論このクラスを取らずに申請する学生もたくさんいるが、何せ競争率の激しいプログラムへの申請には神経を使う。申請上の不明な点を説明してくれるので安心だった。ダイエタティック・インターンシップのプログラムはどこにでも、ゴロゴロしているわけではない。希望者の人数に対して、プログラム数は極めて少ない。私の在学していたモントクレア州立大学には、幸いにしてそのプログラムがあった。他に近場では、ニュージャージー州の二つの大学に、それと通える範囲では、ニューヨーク市の病院、それと、大手フードサービスの請負会社などににダイエタティック・インターンシップのプログラムはあった。だが、定員がどこも10人位だ。勿論、全米の各州にはそれぞれ存在するが、それは私の通える範囲ではないので視野には入れていない。

 申請に必要なものは、

  • プロフェッショナルとしてのゴールを述べたカバーレター
  • アメリカン・ダイエタティック・アソシエーション(現アカデミー・オブ・ニュトリション・アンド・ダイエタティクス)発行の申請書
  • 推薦状2通(先生からのものと、職場からのもの)
  • ダイエタティック・インターンシップに入るための必修科目(Didactic Program in Dietetics、略してDPD)を終了したことの証明書と学士号の証明書、
  • DPD の成績証明書(GPAが3.0以上)
  • 50ドルの申請費用

 

 それから、ほとんど皆が複数に申請するので、コンピューターによるマッチングシステムがある。もし第一志望に落ちても、第二志望で、採用者側とマッチすれば、入れる仕組みだ。そのコンピューターマッチングシステムにも登録しなければならない。それにも50ドルの費用がかかる。

 私は、モントクレア州立大学、ニューヨークの病院、アラマークというフードサービスの請負会社の中にあるプログラムに申請した。第一志望は、もちろん私の勉強してきたモントクレア州立大学のプログラムだ。

 ちなみに、申請時にはかからないが、インターンシップに入れた場合は、更に約5000ドルのインターンシップ授業料と二つの修士課程のコースの授業料約2500ドルがかかる。

 

ダイエタティック・インターンシップの面接・採用の過程

 

 モントクレア州立大学のダイエタティック・インターンシップのプログラムの申請の締め切りは2月半ば、面接は4月、採用の発表は5月、そしてインターンシップのプログラムの始まりは9月という日程だった。申請書類については問題はなかった。それと、採否を決定する、そのプログラムの担当者の一人は、私のカリキュラムの編成をしたキャロルで、私のとった「栄養カウンセリング」の担当講師でもあったので、互いに良く知っているという安心感はある一方、たったの10人枠だ。ニュージャジー州中の申請者と競合するという不安はやはり大きかった。インターンシップにただ入りたいだけではなく、第一志望のモントクレア州立大学のインターンシッププログラムに入りたいのだ。

 推薦状を書いてもらったスミス先生に、口頭での後押しもお願いした。不安のなか、アルバイトをしながら時を過ごした。四月の面接の通知を受け取った。私が終了したばかりのモントクレア州立大学のプログラムと、アラマークと言う会社のプログラムの面接に行った。面接の内容はもうほとんど記憶にないが、我が大学のプログラムの面接は、面接官が私を既に知っているだけに、和気あいあいとしたものだった。一方、アラマークの面接では、面接官が私には興味を示していない気配がありありとした。

 採用の結果の出る5月までがまた長く感じた。アルバイト先は、リハビリテーションセンターの食物栄養課(Food and Nutrition Department)で私はキッチンの手伝いをしていた。その同じ課で働いていたスティーブも、やはりモントクレア州立大学のインターンシッププログラムに申請していたのだった。彼は、キッチンではなく、病棟で、ダイエティシャンとしての仕事をしていた。ヘルスケアシステムの規制は時々に変遷しているのだが、当時は、長期療養施設では、ダイエティシャンの資格がなくとも、栄養学を専攻中か終了したものは、ダイエティシャンの仕事ができた。やがて私も病棟の仕事を少し手伝うようになり、スティーブが親切に手ほどきをしてくれた。

 スティーブと私は互いに競合相手なのだが、スティーブが私に親切だったので、むしろ同士として、顔を合わせる度に、採用結果は受け取ったかと聞きあっていた。そして5月、遂に待ちに待った採用通知を受け取った。スティーブも私もモントクレア州立大学のインターンシッププログラムに入ることが出来た。

 状況を振り返ってみると、そのころのアメリカはクリントン大統領のもとで、景気が大変良かった。景気がよいと、地味なサービス業には人が行かず、華やかで手取りの良い職の方に人が集まる。ダイエティシャンもその例にもれず、人気が低迷していた。私が、ダイエタティック・インターンシップのプログラムに入れたのも、例年よりも競争率が低いなどの事情が幸いしていたのかもしれない。

(続く)