44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで⑩

 

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

前回は、米国になんとしても、舞い戻りたいとあがいている時に、友人から電話があり、留学というアイデアが浮上してきたのです。

 

 

著書より前回の続き

 

留学斡旋所 - 「この人変な人」

 

 弁護士事務所からの至難の査定結果を受け取ったものの、ともかく自体がはっきりしたことと、一つ目の難題の推薦状については大丈夫だと思えたことで、留学という選択が次第に現実味を帯びてきた。とにもかくにも留学の可能性について探ってみることにした。資金については、どの位用意すればいいのかまだわからない。私の定期預金、普通預金の全財産、また親に相談することも念頭に入れた。

 いつも新聞広告で見ていた都心にある某留学斡旋所を訪ねた。そこの女性の所長と面接をした。私の栄養学を勉強したいこと、学士号は持っているので、教養課程は飛ばして、専攻課程へ編入学することの希望、そして年齢。42歳だ。それに加えて、リリアンが言っていた、教授等の助手をして稼ぎながら勉強することができるかも尋ねた。すると、その所長は、そんな突飛な考えがどこから来るのかというような感じで、態度が変わり、「この人変な人」と言って、私の相手を若いスタッフに引き継がせた。後から考えれば、うなずけるものもある。そこに来る顧客は皆若くて、裕福な家庭の子女に見受けられたからだ。お金の心配まで、持ち込んでやってくる40代女性は、私が初めてだったのだろう。それと、リリアンが言っていた、教授の助手という仕事は、今思えば、修士課程の学生にならある話だが、学士課程の学生にはまずない。

 引き継いだ若いスタッフも、「この人変な人」と言うのを聞いて引き継がされたのだから、到底親切であろう筈もない。所長よりはましとはいえ、何か投げやりな応対だった。そして、何を思ってか、「あなたは留学できないと思う」とまで言われた。そして、そのカウンセリングの一環であるらしい,英語のテストを別室で受けるよう言われた。それは、TOEFL英語圏への大学留学のための英語能力を測定するテスト)の模試だった。

 TOEFLは、当時は、文法、リスニング、長文読解のカテゴリーで構成されていた。米国四年生大学入学の基準が500点で、修士課程だと550点だった。私は、予期もしない初めてのテストで、不意を突かれた感じだったが、当たって砕けろという気持ちで受けたら、その結果は、470点代だった。スタッフがそんなに悪くないとつぶやくのが聞こえた。そして、けちょんけちょんに言って私を追い払う材料を失ったかのように見えた。私は、その所長とスタッフの対応でかなり落ち込んだが、もう後戻りはできないと心に決めていたので、次回のカウンセリングにも行くことにしていた。

 

K書店で見つけた海外留学センター

 

 それから間もないある日に、K書店に買い物に行き、そのビルの階段を上っていると、K書店が運営している「海外留学センター」のポスターが目に入った。そのポスターには、斡旋を受けた人の百パーセントが留学できることがうたわれていた。たとえそれが誇大広告だとしても、何か温かい感じがした。特にその前の某留学斡旋所の処遇に気がめいっていた後だけに一層だった。私は、早速電話で予約を取り、訪ねた。

 応対してくれたのは、穏健そうな玉木さんだった。二十台後半位の女性で、彼女にも留学経験がある。私の希望を話すと、玉木さんは全て受け止めてくれた。そして、私に先ず、正規のTOEFL を受けて、500点を突破するように指示した。大学選びも、書類の準備や申請も、すべてTOEFLの基準点をクリアしてからだ。その留学斡旋のプログラムの一環として、TOEFLを補佐する英語のクラスも併設されていた。参加は自由な、週一回だけのクラスで、参加者は数人しかいなかったが、私は毎回出席した。だが、参加者が少なかったためか、そのクラスはしばらくして、閉鎖されてしまった。その英語クラスでは、とても質の良い講師による、TOEFL そのものの反復練習ではなく、英語の聞き取りを伸ばす訓練がなされた。

 海外留学センターにお世話になり始めたのが1996年(平成8年)の確か3月か4月のことだった。そして、玉木さんに言われて直ぐはじめに受けたTOEFLの試験は6月頃だった。その結果は、490点位だった。2回目を8月頃に受けて、その結果は、500点にもう少しというところの495点位だった。そして、3回目を10月に受けた時に、500点を超えた。私は満足できなくて、更に続けて受けるつもりでいると、玉木さんが私に、もう受けなくていいと言った。(続く)