44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉒

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

留学二年目に入ってまた一苦労。栄養学において、マクロビオティックがどう評価されていたか。一方で、久司道夫先生ご夫妻の活躍が、スミソニアン米国国立歴史博物館への殿堂入り。

 

著書より前回の続きです。

 

二年目の春学期(Spring semester)

 

 二年目の春学期には、「生物学の基礎」(Fundamental Biochemistry)を含む5科目を登録した。そして、この「生物学の基礎」では、本当に苦労した。この課目は、有機化学とは違って、英語力を要した。複雑で、種々ある代謝を理解しなければならなかった。テキストを読むのも追いつかなかったし、理解するのも難しかった。小テストも出来が悪かった。期末試験の前には、先生がサンプルテスト問題を皆に配ったので、それを一生懸命に解いて覚えたが、それでも心配だった。それで、先生のところに話しに行き、このクラスを落とすわけにはいかないので、最低「C」は欲しいと頼んだ。そのせいがどうかはわからないが、成績は「C」だった。

 もう一つ、この学期でさんざんだったクラスがある。それは、「個別管理:理論と戦略」(Individual Management: Theories and Strategies)だ。この課目は、例の、学位を取るために増やした3科目の内の一つで、ダイエティシャンになるための必修科目ではない。テキストはなく、先生の話だけだった。先生は、50代位の瘦せ型の女性だった。私は、授業中に、数回質問したことがある。その度に、先生は私が何を言っているのか分からないと言う。すると、なんとクラスメートらが、毎回私の質問を先生に言いなおしてくれるではないか。先生には分からず、その学生達には分かった。いや、先生は理解もしたくなかったのだろう。クラスメートの優しさが身にしみた。提出したペーパー(小論文)も理解されなかった(勿論、チュトリアルセンター で英分の添削はしてもらってある)。成績は「D」だった。大学内といえども、それは現実社会の縮図だ。心温かい人にも会えば、意地の悪い人にも会うのだ。

 

マクロビオティックの評価

 栄養学を勉強して行く中で、マクロビオティックへの評価はいつも気になっていた。現代栄養学と、マクロビオティックは根本的に違う。今でこそ、マクロビオティックに近い菜食(Plant-Based Diet)が幅を利かせるようになってきたが、私の修学当時は、マクロビオティックは異端の様相を呈していたので、口にするのも憚った。私の使っていた教科書の4冊くらいににマクロビオティックのことが、僅かに触れられていたが、全てが否定的なものだった。それらの教科書はもう手元にないので、記憶の限りだが、食物繊維が多すぎると書かれていたり、また形而上学的とも書かれていた。もっともマクロビオティックでは、陰陽の理念を使うので、形而上学的と言えるかもしれない。ただ主流をなしている科学の世界からすると、マクロビオティックは土俵にも上がれないまがい物に過ぎなかった。

 

久司先生のスミソニアン米国国立歴史博物館への殿堂入り

 

 その一方で、真逆のことが起こる。1999年、二年目の夏。この夏は、マクロビオティックと久司道夫先生ご夫妻にとって、歴史的な時でもあった。それは、米国における、久司道夫先生と奥様のアベリーヌ先生のマクロビオティック活動とその功績が評価されて、ワシントンDC のスミソニアン米国国立歴史博物館に、日本人としては初めて、彼らの代表的な出版物や資料が、永久保存されたのだった。そして、その式典が6月8日と9日に行われたのだ。

 民間レベルでは、知る人ぞ知るマクロビオティックだったのである。というのも、現代医学から見放されたがん患者が、久司先生の指導を受けて、がんを治したケースが数知れずあったからである。

 それともう一つ、評価された大きな要因は、当時国連に努めていた北谷さんの応援も大きかったのではないだろうか。例の私の留学への推薦状をお願いした一人だ。北谷さんは、末期の胃がんを久司先生の指導により克服し、その後は、国連内でマクロビオティック協会を設立し、講座を開くなどのマクロビオティック活動を続けた。久司先生の国連での講演も実現した。かくして、私の気持は二極だった。全く理解されないマクロビオティックを密かに信じて卑屈になっている私と、誇り高い私とだった。

 私が、その式典の招待状を受け取ったのは、4月か5月頃だった。式典は6月8日と9日だ。私が、どれほどにその栄誉に感激し、興奮したかはわからない。出欠の返事は勿論、Yes であるべきものだった。だが、その夏のサマーセッションを私は既に登録していた。「作文」(Freshman Composition)と「食事の計画と管理」(Meal Design & Management)だ。6月8日と9日は、「食事の計画と管理」の真っ最中の時だ。6月8日は、マクロビオティックの世界の同士達のレユニオン、そして6月9日は昼間の式典と夜のレセプションだ。どうしても出たい。でも出られない。なぜなら、サマーセッションは、毎日の集中講座なので、二日も欠席したら、大きな減点だ。単位を取れないかもしれない。また、取りなおす時間もお金もない。私は、この留学に命を懸けている。誰の助けもない。もしこの留学が頓挫したら、もう未来はない。私は泣く泣く欠席の返信を出した。絶望的な思いだった。

 毎日「食事の計画と管理」のスケジュールを見ながら、無念の思いでいた。ふとある考えが浮かんだ。6月8日はむりでも、6月9日の夜のレセプションだけなら出られるかもしれない。クラスは昼頃に終わるので、それから直ぐにバスを乗り継いで、ワシントンDCまで5時間近くかかるが、夕方には着く。夜のレセプションには、間に合う公算だ。その日はホテルに泊まり、翌日一日だけクラスを休もう。「食事の計画と管理」はグループワークなので、他のメンバーにも迷惑をかけるが、一日だけ許してもらおう。成績にも多少は響くだろうが、この歴史的な日を逃すよりも良いような気がした。そうすれば、スミソニアンでの久司先生ご夫妻の祝宴に、わずかでも隣席できるし、また「食事の計画と管理」のクラスも、大きなダメージなしで続けることができるだろう。私はその考えに勇み立ち、急いでクシオフィスに電話をし、欠席通知を9日のレセプションのみの出席に変えてもらった。

 当日は、クラスのグループのメンバーに翌日休むことを伝え、私の役割の分担もお願いした。そして、クラスが終わると直ぐにワシントンDCに向かった。夕方に着いた時には、正装をした久司先生達一行の、プロの写真家による記念撮影をしているところだった。私は、この素晴らしい日の、この瞬間に何とか間に合って、本当に良かったと思った。夜のレセプションには滞りなく出席できて、満足で誇らしかった。

 7時から9時のレセプションは、その後も談笑が続いていた。その時私はまたふと思った。今ならまだ夜行バスに間に合うかもしれない。最終便に間に合えば、明け方には着く。そしてクラスにも出られる。念願だった行事には出席できたので、もう思い残すことはない。クラスに出られるものなら出たい。ホテルはキャンセルし、知人に頼んで、バス停まで車で送ってもらった。最終便に乗って、明け方着いた。バスの中では殆ど眠れなかったが、翌日のクラスは休まずに出ることができた。

(続く)