44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで➆

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。今回が"事件″の起こる直前です。

 

著書より、前回からの続き

 

ボストンのクシオフィス

 

 ボストンのクシハウスには、その時もやはり5-6人の男女が、家の手伝いをしながら居候していた。玲子さんはもう既にクシハウスをで出ていたので、久司先生のオフィスに於ける、私の日本人のアシスタントとしての仕事が早速始まる。オフィスには、もう一人のアメリカ人の青年がいて、電話等英語での対応をし、私が日本語での対応をした。しばしば訪ねてくる日本人ゲストの世話も、日本人アシスタントの仕事だ。朝食作りの当番も受け持った。クシハウスは退屈な程に平和だった。夕方は、日本で始めていた合気道の稽古にも出かけた。給与こそ出ないが、居住費も食事代もかからない上に、アヴェリーヌ先生が毎月心付けもくださったので、貯金が減ることもなかった。久司先生に時々、就労ビザに関わる、Kホテルの購入の件について聞くと、交渉中との答えが返ってくる。

 ビザなしの許容期間である三カ月は、ゆっくりと、でも確実にやってくる。その7月がやってきた。ともかくも米国を出なければならない。アヴェリーヌ先生が、ヨーロッパのマクロビオティックソサエティを旅行してきたらどうかと提案してくれ、彼女の知人達に連絡を取ってくれた。それで私は、そのつてを頼って、フランス、ベルギー、オランダへ10日間程の旅に出て、また米国に戻った。そしてまた、次の3カ月が過ぎようとしていた。10月、今度は、日本に帰国して、その一か月後の久司先生達の来日を待つことにした。そして、11月に久司先生達がまた、日本旅行参加者を連れてやって来た時には、それに付き添って、その全行程のお世話をした。

 久司先生のKホテルの購入の話は進んでいないようだった。でも私はまだ、その就労ビザの話にしがみついていた。ビザなしで、米国への出入国を繰り返して米国入国を拒否される恐れがあり危ないので、今度は約半年後の、1995年(平成7年)6月にボストンに戻ることにした。六月にボストンに戻って、その間私は、友人の知恵で、アメリカの大学の通信教育での学生ビザを取ることを試みた。実際、通信教育で学生ビザが取れる筈もない。申請したビザはあっさり却下された。(続く)