44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで➇

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。今回は、留学の直接のきっかけとなる"事件″についてです。

 

著書より、前回からの続き

 

不法滞在

 

 だが、その通信教育の学生ビザの発行に期待をかけて待っていたせいもあって、米国出国期限の3カ月(90日間)のギリギリになってしまった。気が付いて、直ぐに移民局に行ってそのことを相談すると、即座に、今すぐ米国を出ろと言われた。私は翌日、手荷物一つで日本に帰国した。1995年(平成7年)9月のことだった。

 私は、直ぐにボストンに戻る予定だったので、衣類や所持品のほぼ全てはクシハウスに残したままだった。久司先生の就労ビザの話への期待は捨てていなかった。しばらくして、米国の移民局からのファックスが転送されてきた。その内容は、冒頭に記した、米国への不法滞在につき、今後10年間は米国には入国できない、というものだった。寝耳に水、晴天の霹靂だった。わずか一日以内の不法滞在で?私に一体何が起きたのか、何をどう理解したらいいのか、まったくわからなかった。ただ気が動転して、文字通り、目の前と未来が真っ暗になった。(今その時のパスポートを見ると、正に90日目に米国を出国したということになるので、計算上では合法内だ。ただその前年の計6カ月の滞在を鑑みると、ほぼ不法滞在に匹敵すると判断されたのだろう)。

 

秘策探し

 

 FAXの件では、直ぐにクシハウスに連絡をした。アヴェリーヌ先生と話しをすることができた。アヴェリーヌ先生は、私に、しばらく様子を見て、1年後かそれくらいに、また来たらどうかというようなことを話されたと思う。アヴェリーヌ先生にも、何の解決策も見いだせなかったのだろうことは、直ぐに理解した。私は、約二カ月後の久司先生達の来日を待つことにした。

 二カ月後の11月にまた、久司先生達が日本旅行団を連れてやって来た。また、例年のごとく、旅行団のお世話をした。その間だけは、まだアメリカとつながっているような気がして、不安が少しまぎれた。その問題について久司先生と話すのは、その旅行の最後の日まで待つことにした。そしてその最後の日がやって来た。久司先生にKホテルのことを聞くと、確か、Kホテルは購入したが、その先は進んでいないというような返事だった。勿論、就労ビザが取れるというような状態では到底なかった。久司先生からもまた、数年日本に滞在して、またアメリカに来たらどうかというような助言を受けた。そして、久司先生は、同席していた久司先生のビジネス関係の知人に、裕子さんのことをよろしく頼むとお願いしていた。久司先生ご夫妻とその一行がバスに乗り、そのバスが動きだしたとき、久司先生はいつものように、私と他のスタッフに大きく手を振った。私は、その時、頼みにしていた細い綱がプツリと切れて、宇宙に放り出されたような絶望感を感じた。その後、やむなく久司先生のビジネス関係の知人の経営している小さな会社に雇われて働くことになった。(続く)