44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉞

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

いよいよ、管理栄養士の資格試験、RD Exam です。

 

著書より前回の続き。

 

H1Bビザの話を持ち出して首に

 

 ひと月ちょっとしてから、マネージャーにH1Bビザの事を持ち出した。怪訝な顔をされたが、人事部に行くよう言われた。人事部長もそんな話は聞いていないと言った。それでも、おざなりに、何が必要なのかと聞かれたので、施設の年間収入等を書き込む書類と申請費用等だと答えると更に不快そうな顔をになった。

 それから間もなくして、マネージャーから仕事中に呼び出された。指定された部屋に訪れると、マネージャーともう一人、普段見かけない年配の管理職の女性がいた。そして私は、首を宣告された。理由は、栄養評価 (assessment) の記述が間違っているということと、服装規範 (dress code) に触れるということだった。記述の間違いということに関しては、私がある患者の急激な体重減少が浮腫に関係していると書いた。浮腫がひどいと大体利尿剤が処方され、激増していた体重が逆に激減する。言葉が足りていたかどうか、詳細は覚えていないが、そのケースもそうだった。私はそのように説明したが、二人ともダイエティシャンでもなく、全く意に介さないようだった。服装規範に触れたということに関しても、具体的な説明は何もなかった。私はいつも、ほとんどのダイエティシャンがそうであるように、白衣を着ていて、白衣の下は、シャツブラウスとスラックスだった。追い出すための行程なので、議論の余地はない。

 まるでアメリカのドラマや映画の中で起こるように、ある日突然首になって、荷物をかかえて出ていくという体験をしたのだった。だが、考えて見れば、私が求めたビザのサポートは、彼らにとっては、経営上のごまかし等がばれるかもしれないという脅威だったのかもしれない。だから、ビザによる理由などはおくびにも出さず、私を切り捨てることに徹したようだった。働き始めてから一月半位後の一月下旬の出来事だった。

 

RDへの最後のチャンス

 

 今から考えれば、そこでいつまで働いていても、ビザなしに将来はないわけだから、早く首にしてもらってよかったわけだ。職を失って考えた。そして考えた末の、私の緊急の計画は、一カ月間働かずに、RD Examの勉強だけに集中すること、そして資格をとり、職を見つけること。そして面接の時点でキチンとビザのサポートをもとめ、話を取りつける。そして、プラクティカル・トレーニング・ビザの有効期間内にH1Bビザの申請・取得だ。

 RD Examを一カ月後の2月22日とし、登録をした。それまでの一カ月の間、それまでに蓄積された何冊もの問題集を、何度もなんども繰り返した。これでだめなら諦めろと自分に言い聞かせた。

 

父の死

 

 こともあろうに、2月9日父の急逝の知らせのFaxを姉から受け取った。父は高齢ではあったが、取り立てた病気は患っていなかった。私はショックであるのと同時に、その時の状況を鑑みて、ピンチに陥った。目前に迫っている三回目のRD Examは、私に残された最後のチャンスだ。父のお葬式には出られない。でもそんなんことが許されるのだろうか。私はそう思いながら、直ぐに姉に電話した。姉は私の状況等は知らなかったのだが、まるでテレパシーで察したかのように、お葬式のために戻らなくてもいいと言ってくれた。私はその言葉に、感謝しきれない程に感謝した。

 だが、その後何年も、父への申し訳なさと、後ろめたさに苛まれた。親の葬式に出ないなんて人非人だと。久司先生が、僕も親の葬式には出られなかったというのを聞くまでは。

 

RD Exam 

 

 いよいよ運命を左右するRD Exam の当日だ。前日はよく眠れるようカフェインは一切とらず、早く床に入った。電話のコードも抜いて、不意の電話で眠りを妨げられないようにした。頭さえ冴えていれば、知識は十分に入っているはずだから、記憶の引き出しから取り出せるはずだと信じた。

 試験が始まった。今度は時間をかけ過ぎずに次々と進むことにした。125問を過ぎても出題は続いていた。少し不安がよぎった。125問を過ぎると、出来具合が良ければ、早く出題が止まるというのを知っていたし、また実際、合格と出て出題が止まったという人の話も聞いていた。出題は延々と続いた。ついに145問目まで来て、出題は止まった。あ~と思う間の次の瞬間に「合格」と出た。合格!!! ついにやった。26点の合格だった。1998年(平成10年)の一月にアメリカにやってきて、四年後の2002年(平成14年)2月22日のことだった。

 

RD Examの合格率

 

 統計によると、RD Examの初回受験者の合格率は約70%だそうだ。二回目三回目と受験するごとに、合格率は下がってゆき、受験回数に関係なく、全体の合格率は約50%だ。

 そしてもう一つの現象がある。アメリカのRDとDTR(資格のあるダイエット・テクニシャン)の組織ADN (Academy of Nutrition and Dietetics)の下に、CDR(Commission on Dietetic Registration)と言う組織があり、RD exam やその他(プロフェッショナル・ポートフォリオ等)を管理している。そのCDRと外国のダイエティシャンの組織の間に協定があり、カナダ、オランダ、フィリピン、アイルランドのダイエティシャンが、もしアメリカでRD になりたければ、インターンシップを義務づけられることなく、直接、RD Exam を受ければよいことになっている。

 その協定を利用してRD を目指すフィリピンからのダイエティシャンがアメリカには沢山いる。私も、老人ホームで、資格のないフィリピン人のダイエティシャンにかれこれ10人位会っただろうか。老人ホームでは、資格のないダイエティシャンも働くことが出来るのだ。勿論彼らもRDを目指してRD Exam を受けている。だが、フィリピン人のRD exam の合格率は7%だと聞いたことがある。なぜなのか。インターンシップがそれほどまでに、RD exam に大きな役割を占めているのか。

(続く)