44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉝

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

生活するためにとりあえず就職。そして資格試験に挑みます。

 

著書より前回の続き。

 

4章 就職

 

インターンシップ後の始めての就職

 

 インターンシップが終わるころから、皆は次々と就職を決めて行った。何故か皆、ほとんどが臨床ダイエティシャンを目指す。私もそうだった。病院で働きたい。

 その時点で貯金は底をつき、窮状を察した姉が送ってくれた50万円だけが命の綱だった。なので私はすぐに働き始めなければならなかった。かと言って、皆のように資格を取る前にダイエティシャンとして雇われる自信は全くない。資格を取るまでのつなぎとしてアプローチしたのは、マウンテンサイド・ホスピタルの食料栄養部(Food and Nutrition services) の通常ダイエテックと呼ばれるダイエット・テクニシャン(Diet Technician)の仕事だ。

 マウンテンサイド・ホスピタルの食事療養部門のマネージャーのアナを知っていた。それというのは、そこの病院食堂のウェートレスのアルバイトをインターンシップの前に短期間したことがあるのと、インターンシップの期間中は、糖尿病部門と腎臓透析部門のローテーションがマウンテンサイド・ホスピタルでであったためだ。アナは優しい性格で、彼女のしゃべる英語が、ポーランド移民としてのたどたどしいと言える程の、強いアクセントがあったため、余計に親しみが持てた。

 アナは、ダイエテックのパートのポジションに私を直ぐに雇ってくれた。ダイエテックの仕事は主にメニューの管理だ。朝、病棟の患者に選択式のメニューを配り、昼頃それを回収し、それをそれぞれに指定された食事療法に従って、調整をする。例えば、低塩食の患者の選択品目の塩分の量が制限を超えていれば、それを削ったり、他の品目に入れ替えたりする。

 はじめの三日間はトレーニングだった。正社員のダイエテックと共に、病棟を回り、調整も手伝ってくれた。四日目が私のダイエテックとしての旅立ちの日で、始めて一人で病棟を回った。そこで出会ったのが現在の夫のスティーブンだ。彼にとっては、その日が最後で、翌日には別の病院に移る予定だった。彼は、彼の取り組んでいたプロジェクトの日本語訳を私に手伝って欲しいということで、私の連絡先を聞いてきた。十日程して電話がかかって来た。それが始まりだ。 

 そこで働いているダイエティシャン達は私を怪訝な目で見ていた。それもそのはず、インターンシップを終えてから、ダイエテックとして働きだす人は先ずいない。多くがダイエティシャンとしての職を得て、同時に資格を目指す。私は、資格を取ることが先決だと考えていたから、ダイエテックとして気にせずに働いていた。

 

初めての資格試験

 

 ダイエティシャンの資格試験(RD exam)は、90分で125問を解く選択式だ。コンピューターの自動操作で、正解がある程度に達すると、90分以内に出題が止まり、パスする。不正解の回答をすると、関連の少し易しい問題が出題されて、最高145問まで出題される。そして、合格か不合格の結果がでる。

 8月の末に受けた初めての資格試験の結果は不合格だった。25点の合格点を一点下回った24点だった。コンピューター操作なので、どのようにその点がつけられるのかはわからない。満点が50点であるということも、最近まで気が付かなかった。私の知る限りでは、合格者の点数は大体25点から27点くらいで、一人28点というのを聞いて感嘆したことがあるほどだ。

 落胆している暇はない。RD Examは45日を置けば、何回でも受けられる。45日後を目指して、問題集と、オンラインの問題集も購入してまた反復し始めた。

 

ダイエティシャンとしての初めての就職

 

 11月の始めに二回目のRD Exam を受けた。今回は、ダイエティシャンの先輩が試験の時、時間があり過ぎていちいち腕組をしたというのを聞いていたので、私も時間をかけてゆっくり回答することにした。すると、残り15分と言うところで、問題が沢山残りすぎてしまい、警告として画面全体が赤く変わった。それにはもうビックリして、心臓がドキドキし始めた。残りの15分で確か50問くらい(?)残っていたので、私はパニック状態になり、問題も答えも読めていない状態で、闇雲に答えを選びクリックしていった。そして当然の結果として、スコアは20点に下がり不合格だった。これにはショックだったが、落ち込んでいる暇はない。更に別な問題集を、見つけたので購入し、また合格した友人の使った問題集のコピーも加えて、勉強を続けた。

 そうこうするうちに、プラクティカル・トレーニング・ビザの期間は半分も過ぎている。ダイエティシャンの職を得て、早く次のビザの手続きをする必要がある。資格は取れると信じて、ダイエティシャンの職の空きも探し始めた。

 そしてついに、ニュージャージー州の500床以上の大型の老人ホームにおけるダイエティシャンの職を得た。ビザの事は面接の時に持ち出さなかった。私の考えているビザは、専門職ビザ、すなわちH1Bビザで、スポンサーによる書類と申請費用のサポートが必要だ。そんな面倒な事を言えば、嫌がられて雇ってはもらえないと思ったので。良い仕事ぶりをみせて、気にいられてから、ビザの事を話そうと思っていた。入居者を本来の二人部屋に三人押し込んで、暴利をむさぼっているように見えた施設だったが、ベストを尽くして仕事をした。

(続く)