44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊶

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

辛く苦しい事ばかりが続いた日々に、ついに転機が訪れる。

 

著書より前回の続き

 

ビンセントからの連絡

 

 フロアの仕事はじめ、いつものように、職場のメールと個人のメールの両方をチェックしていると、個人のメールの中に、ビンセントからのメールを見つけた。ビンセントは、前述したように、バーゲン・レジョナル・メディカル・センターの食糧・栄養部のディレクターをしていたが、外部の会社が入ってきたために、職を追われた。だが直ぐに別の病院のソデクソ 傘下の食糧・栄養部のディレクターの地位を得ていた。

 ビンセントは、ニューヨーク州を拠点にしていたので、私達がニューヨーク州に移住することになるまでは、連絡することがなかったが、移住前後に1・2回メールや電話で周辺のRD の職場の事情を聴いたりしたことがある。そして最後に話したときにはSodexo も辞め、ニューヨーク州立の施設の中の食糧・栄養部のディレクターをしているとも言っていた。

 そして今回の連絡だった。メールに私語のメッセージはなかったが、ウェストチェスター郡モントロースのニューヨーク州立べテランズ・ホーム(退役軍人老人ホーム)のダイエティシャン(RD)の募集広告の転送だった。その広告はダイエティシャンの募集サイトで私も確か見ていたが、州立の施設であり、私が州立職員の空きに応募するための登録をしていないので、無理だと諦めていた(その必要はないことは後から分かった)。そこはビンセントの職場だった。電話番号がでていたので、直ぐに電話をした。ビンセントが出た。

 私は、メールを受け取ったこと、その募集は既に見ていたこと、今職を探していることなどを話した。彼は私にどこに住んでいるのかを聞いて来たので、それに答えると、(その職場と私の住居は)近いという。それから、彼は私が今職をもって働いているのかも聞いて来た。あとから知ったことなのだが、辞めて職を探しているより、仕事をしながら職を探している方が、信用度が高いらしい。そして、もしその空きに興味があるなら、直ぐに応募するように言ってくれた。

 それはもう天の声としか言いようがなかった。職場が自宅から近くて、安定した州立の施設で、信頼しているビンセントからの薦めで、ビンセントの下で働ける職場だった。迷わず応募手続きをした。そして、ビンセント及び他のスタッフとの面接を経て、採用された。補足だが、バッサー・ブラザーズ・メディカル・センターには、辞める4週間前に辞表を提出して、土壇場でのいじめや嫌がらせを回避することに万全を期した。私より前に辞めたダイエティシャンが、2週間前に辞表を提出すると、3週間前ではないという理由で、残りの休日の換金をされなかったのを見ているので。(彼女はもう一週間延ばすことで、その措置は回避することは出来たのだが、彼女自身、2週間後に次の職場に移ることにこだわっていた)。

(続く)

 

 

44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊵

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約二年半務めたバーゲン・レジョナル・メディカル・センターを出てから、入った職場は、ソデクソ(Sodexo) と言う、フードサービスの提供や施設管理事業を展開している会社が契約している病院や施設だった。大きな会社で憧れもあったのだが、災難に会い、遠距離通勤を余儀なくされ、三年半(病院や老人ホームを転々とする)後に、比較的近場の病院に移る。そしてそこで、いじめにも会う。

 

著書より前回の続き

 

ソデクソ(Sodexo)

 

 実は、先に勤めていたニュージャージー州の3つの病院とテーラー・ケア・センターの食料・栄養科は、ソデクソと言うフード・サービス等を専門とする会社が契約で請け負っていた。だから、私は、正確に言えば、ソデクソ の社員であった。ソデクソ では、もし社員の過失ではなく、社員が職を失った場合は、一時的にマネージメント・チームと言う部に回され、ソデクソ 傘下の職の空きがあればそこを一時的に提供される。そしてその間に、ソデクソ 内でも外でも職を探すよう奨励される。

 テーラー・ケア・センターが閉鎖されると、私は、ハーレムの病院のダイエティシャンの職を提供された。それから4カ月後に、そこで休職していたダイエティシャンが復帰してくると、今度は、チャイナタウンの老人ホームの職場を提供された。通勤には、車、電車、地下鉄、歩き、そして乗り継ぎや待ち時間を合わせると、合計2時間かかった。朝6時に出て、夕方6時に帰る生活に疲れ果てた。そしてそこのマネージャーが変わり、意地の悪い性格の新しいボスの下で働らかなければならないことにも消耗した。ソデクソ内外の目ぼしいところに応募したが、採用には漕ぎつけなかった。でも、リーマンショックで、巷では失業者があふれていることを考えれば、職があるだけでありがたいと思い、耐え忍んだ。

 ついに次の職場を見つけ、結局、ソデクソ のお世話になったのは、2007年(平成19年)2月から2010年((平成22年)8月までのことだった。

 

ソデクソ を出て

 

 先のチャイナタウンの老人ホームで働きながら職を探している時、車で通える範囲の病院での初心者のポジションの募集を見つけた。給料はずっと下がることになるが、その給料を受け入れると、採用された。セント・フランシス・ホスピタル(St Fransis Hospital) だった。だが、一度膨らんだ家計が、また初任給レベルに下がると、やはりやりくりはできなかった。試用期間の3カ月が過ぎて、社会保険が差し引かれるようになると、悲鳴を上げた。給料が安い事を除けば、全てが平和で、温かい職場だったのだが。

 少しでも給与のよいところを求め、4カ月後に、たったの5分だけだが、自宅からの通勤時間がちじまることの良さもある、バッサー・ブラザーズ・メディカル・センタ(Vassar Brothers Medical Center) の職を見つけ、移った。365床もある大きな総合病院で、パートを含めてダイエティシャンは5・6人いた。マネージャーは、私のCNSCの資格にも敬意を表してくれ、私も張り切って仕事を始めたのだった。だが、私の英語のおぼつかなさもあってか、マネージャーのいじめにあうようになった。そのマネージャーは過去にもいつも誰かを標的にして、いじめていた。その矛先が私に回って来たのだった。電話にでても、私とは話さなかったり、月ごとの功績者のリストに、私の功績は載せなかったり等々。

 そしてついには、私の取った静脈栄養法の判断をめぐって、それは上司の許可を得ず、かってに進めたものだという理由の始末書に署名を迫られた。私は署名を拒否することもできたが、私の言い分を残したかったので、それをしたためて署名した。内容の詳細は今覚えていないが、それはそれほど逸脱したことでもなかったし、また、CNSCの資格を得るために得た知識を裏付けに、患者にはより適正であると自負する判断だった。ただプロトコル(標準治療)にはまだ入っていなかった。実際、その事件のすぐ後に、医師も含めた会議が重ねられ、結局、私の判断基準とその処置ががプロトコルに入った。

 とは言えども、プロトコルに入る前の私の行為が「不正行為」とされたことには変わりはない。そしてその始末書は、もう一度「不正行為」をおかせば、私の職は剥奪されるというものだった。もしマネージャーがもう一つ「不正行為」を見つけたければ、それはいとも簡単だ。以前ビザの件で解雇された時のように「服装規範」を持ち出せばいい。でも、マネージャーは私を直ぐに解雇しようとはしなかった。それは、私が通常以上に多いフロアの責任をもっていて、直ぐに代わりを見つけるのが大変だったからだろう。

 そういうわけで、私は生きた心地がしなかった。とにかく解雇される前に仕事を見つけたい、それだけだった。もうパートでもなんでもいい、とにかくそこを出たい。私は応募したり、面接を受けたりしていた。

 

モーニングリポートの英語に関して

 

 私の英語のおぼつかなさは、常に私の課題であるのだが、聞き取りが飛躍する出来事があった。病院や施設では、必ずモーニングリポートというものがある。各ユニットの看護師長か代表が前日やその時までに起こった主なことがらを、朝、医療チームのミーティングで報告する。ダイエティシャンもそのミーティングには通常参加する。

 私は、6つのフロア(ユニット)を受け持っていて、非常に忙しく、全てのフロアのモーニングリポートに参加することはできないので、どのモーニングリポートにも参加していなかった。すると、ある時マネージャーが私に、あるフロアのモーニングリポートに参加し、そればかりか、発言もして貢献しろと言ってきた。

 ちなみに、モーニングリポートの看護師たちの英語は、機関銃のように速い。病院でも施設でも、どこでもそうだ。多数の患者の出来事をゆっくり報告している暇もないし、モーニングリポート自体をはやく終わらせたい事情があるからなのだろうが。私は窮地に陥った。今までは、分かってもわからなくても、聞き流しているだけだったものが、意味のある合いの手まで入れなければならない。もう、一語一句聞き逃すまいと、耳を皿のようにして聞いた。これも私の首にかかっていると。

 すると、しばらくして、彼らの言っていることが分かるようになって来た。やたらに速いけれども、スラングを使っているわけでも、慣用句をちりばめているわけでもない。看護師のストレートで正しい英語がただただ速いだけなのだ。二倍速と例えたらいいだろうか。私は、ここぞと思うところをメモして、その報告後にすかさずコメントを入れることが出来るようになった。それ以来、正しい英語であれば、速くても問題がなくなった。

(続く)

 

 

44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊴

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修士課程がもうほとんど終わるころから、CNSC というダイエティシャンの間では最も難しいと言われている資格取得の準備を始めた。めでたく合格。そして、待ちに待った転職。

 

著書より前回の続き

 

CNSCという資格

 

 RD がさらに目指す資格は数々ある。糖尿病教育、腎臓病専門の資格、または体重コントロールの資格であったりする。その中で、CNSC (Certified Nutrition Support Clinician) と言う資格は最も難しいと言われている。それは、経腸栄養法(胃瘻等)と静脈栄養法の専門資格だ。私がその資格のことを知ったのは、修士課程のクラスを取っているときだった。クラスメートのなかに、いつも数人、その資格の取得者がいた。また、取った一つのクラスの教科書が、経腸栄養法と静脈栄養法専門のテキストだった。その資格を取るためには、そのテキストを勉強すればよいのだと知り、修士課程を終えてから、その勉強に取り組んだ。実は、その資格が、修士をあきらめようとしたときに考えていたものだった。

 選択式で250問、4時間に渡る試験だ。修士を終了した同じ年の2008年(平成20年)の9月、3回目に合格した。だからその年は、修士とCNSC の両方が取れて、最高の年になった。5年間の資格なので、2013年((平成25年)9月までだった。

 その資格期間が切れたあと、2回程そのCNSC の再試験を受けたが受からなかった。私はもう勉強にはほとほと疲れたので、もう受けないことにした。合否を分けた理由に思い当たる節がある。経腸栄養法は病院でも老人ホームでも必要に応じて行われるので、常に接しているが、静脈栄養法は今日まで通常、病院や限られた施設でしか行われなかった(還付制度などの理由で)。はじめにCNSC の試験を受けた時は、病院に勤めていた。だから、静脈栄養法や、関連の生の最新医学情報を刻々身につけることが出来た。CNSC の試験問題は、正にそれらの最新医学情報から出る。2013年(平成25年)9月以降に受けなおした時は、老人ホームに勤めていて、日々刻々と進化して行く最新医学情報からは遠ざかっていた。いくら新しいテキストで勉強しても、現場で吸収できる知識には及ばなかった。

 

転職

 

 これは私の印象だが、RDは始めの5年位は転職を繰り返す。やめても資格があるので、次の職に困らない。また履歴書に記された転職の経歴は、豊かな経験として、むしろプラスのイメージだ。

 私は、他のRD達のように病院からではなく、老人ホームや長期療養施設から働き始めたので、病院で働くことにあこがれていた。そのチャンスは、2007年(平成19年)の2月にやって来た。その頃まで私は、修士課程の履修に忙しかったので、転職のことは脇に置いていたのだが、その時は卒論は終盤にかかっていた。提出しては訂正して再提出の繰り返しだったので、逆に多少の余裕もあった。そしてその修士課程のインストラクターの情報から、ニュージャージー州の3つの連携した病院の一つの病院、セント・ジェームス・ホスピタル(St James Hospital)、のRD の欠員募集を知った。競合は数人いたようだが、私がその職を得た。採用された理由は、私が修士課程をほぼ終えようとしていたことと、他のRD が嫌がる食糧援助プログラムの業務(仕事の中にそれが約半分含まれていた)も厭わない態度だったからなようだ。

 ところがなんと、働き始めたその年にその病院と連携しているもう一つの病院、コロンバス・ホスピタル(Columbus Hospital)の両方が閉鎖されることになった(経営上の理由だろうが、憶測のみで、はっきりとは知らされていない)。RD は他にもいたが、私が閉鎖直前まで責任をもって任務を担うことになり、各病棟ごとに閉鎖されて行く、病院の消えゆく姿を見守った。そして、生き残った三つ目の病院、セント・マイケルズ・メディカル・センター(St Michael's Medical Center)に移った。

 かくして、セント・マイケルズ・メディカル・センターに落ち着ける筈だったのだが、スティーブンと私は、ニューヨーク州に居を構えようと計画したのだった。住まいとスティーブンの職と、私の職の3つを同時に探し始めるという離れ業だったが、偶然や運が重なり、うまくその3つが収まった。私はニューヨーク州ウェストチェスターというところの、テーラー・ケア・センター(Tayor Care Center) という老人ホームに職を得た。2008年(平成20年)の10月のことだった。その年はオバマ大統領が初当選した年で、翌年の就任式の中継では、多くのスタッフが仕事そっちのけでテレビに見入っていた。

 ところが、果たしてもまた、その1月に就職したばかりのテーラー・ケア・センターが閉鎖されるということが発表されたのだった。私にとっては3つ目の職場の閉鎖だった。2008年(平成20年)にリーマンショックがあり、全てがそこに理由付けされ、あらがいようもなかった。

(続く)

 

 

44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊳

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この間に、平行して取っていた修士課程について述べます。45% のダイエティシャンがもっているという修士号はどうしても取りたかった。私の語学のハンディを埋めるためにも。でも、これも大変でした。

 

著書より前回の続き

 

修士課程に関して

 

 修士課程を取ることは、働き始めてからの懸案だった。それというのも、JFJ老人ホームで働いているときに会ったジェニファーや、臨時のパートできていたアリスからのインパクトが大きかった。二人とも修士号を持ったRDだった。自分の判断に100%の自信が持てない時、彼らに聞くと、彼らも同じ判断をしている。でも、彼らにはもっと確かな知識の裏付けがあるような気がした。私には薄っぺらな知識しかないと感じた。それもその筈。学士課程の3年間とインターンシップの約1年間の口頭の授業の内容を、ヒヤリングの悪さから、ほとんどミスしているのだから。案外、教科書に書いてあることは、無駄がなく濃密で、口頭の授業の方は、ジョークを除いて、省いても何ら差支えのないものだったかもしれない。でもそれは私にはわからない。あるときアリスは、栄養評価に正否はないと言った。絶対的なものではないという意味だ。そんなことが言えるのも、アリスに知識の裏付けがあるからだと思った。

 これは後から分かったことなのだが、約45%のRDは修士号をもっている。だから、RD 同士で互角に討議するためにも、修士号を持っていることに越したことはない。実際2024年からは、インターンシップ・プログラムへ入るには、修士号取得者でなければならないという。

 学士課程の栄養学のコースでしばしば一緒たったスーザンは、他大学のダイエタティック・インターンシップを私と同時期に取って、RD Exam にもすぐに受かった。そして、修士課程にもすぐに入り、2003年の春には卒業論文の発表と審査を受けて、無事終了している。スーザンは一緒に勉強したり、教科書を貸したりした仲間だったから、スーザンが取った修士課程なら、私にも取れそうな気がした。

 

ニュージャージー州立医科歯科大学における臨床栄養学の修士課程

 

 スーザンの取ったのはニュージャージー州立医科歯科大学(現ラトガース大学)における臨床栄養学の修士課程だ。このプログラムはワークショップ等を除いては、全てオンラインで行われる。スーザンに、私がそのプロブラムに興味があることを話すと、プログラムディレクターの連絡先を教えてくれた。

 入学の出願に必要なものは、学士号、GPA 3.0 以上、RD であること、短期と長期のキャリアゴールのステートメントなので、ステートメントさえ書けば、要件は満たされる。GRE (修士課程進学者のためのテスト) のスコアはいらない。RDの資格がその代わりとなっている。あとは、プログラムディレクターのエバに連絡して、受け入れてもらうだけだ。

 ちなみに、エバは博士号を持った教授なので、通常、ドクター○○と呼ぶべきところなのだろうが、この学校では、ファーストネームで呼ぶ習慣があった。それは私の、アメリカの大好きな側面だった。

 エバに電話して話をした。エバがどのようにしてこのプログラムを知ったのかと聞くので、私は、元のクラスメートのスーザンから聞いたと言った。すると、スーザンの印象はかなりいいらしく、それなら、信用ができるというような感じで、入学を許可された。

 

臨床栄養学修士課程を終えるまで

                                                                     私は、このプログラムを2004年(平成16年)1月から2008年(平成20年)5月まで、4年かけて終えた。辛く長い道のりだった。一般的に、修士課程は皆働きながら取る。それでも2科目位づつ同時にとって行き、卒業論文も含めて計31単位を取り終え、2年から2年半くらいで終了する。私の場合は、1科目づつ取ったのだが、それでも私にとっては忙しかった。

 教室で行われる授業とオンラインの授業では、どちらが容易か。私は始め、オンラインの方が楽なような気がしていた。その理由は、通学しなくてもよい事と、時間を自由に使えることだった。確かにその二つの点はメリットだったが、だから楽ということは全くなかった。

 私のとったこのオンラインのプログラムの典型的な一週間は次の様なものである。

毎週インストラクターからの、新たな課題と2・3の設問が提示される。それと同時に参考文献として教科書の1-2章分と、ジャーナル(学術論文)の記事3-4本分が提示される。読むこと自体が宿題ではないので、読まなくてもよいのだが、設問の答えはその中にあるので、読まないわけにはいかない。私の読む速度はネイティブ・イングリッシュ・スピーカーと比べると、4・5倍遅いのではないかと思うのだが、それらの資料を読むのに、2-3日、週末だったら週末中かかることも稀ではなかった。

 そしてその答えとその根拠を示してオンラインにポストする。クラスは大体25人くらいなので、25のポストがある。その各々のポストにコメントなり、質問なり、または反論なりしなければならない。と言うのも、参加することも成績に考慮されるので、いい成績を得るために、皆、熱く参加する。コメントやら質問にも答える。するとどうなるか。ポスト、ポストの錯綜だ。それが5日間位続く。コンピューターを閉じている時は、何も聞こえない静寂の世界だが、一たびコンピューターを開くと、そこは戦場だ。時々、コンピューターを開くのが、恐ろしくなることがあった。

 それから、サイバーブリーがある。いじめだ。とは言っても、それはあからさまに相手を傷付けたりするのではなく、無言、または無視だ。私のポストにはまったく組みしない人、私のコメントなどには反応しない人、たまに反応したと思ったら、私の意見に真っ向から挑み、笑いものにしているようなものだったり、、、。傍から考えれば、どうでもよいようなことかもしれないが、当事者にしてみると、相当に傷つく。でも私は、これは自分のためにやっているのだ、「そいつら」のためにやっているのではないと、自分に言い聞かせて乗り超えた。                                 

 卒業論文では死ぬほど苦労した。ちょうど転職した時期と重なり、職場などからじっくりデータを集めることが困難だったので、先生の提案で、既にあるデータを使って、違う側面から分析をすることになった。そして、統計学の公式を使って数字的な結果を出すところまではよかった。私の得意とするところだ。だが、それを論じて結論に導くところがうまく行かない。指導者のエバに持っていくたびに、赤字で戻される。文法などの赤字ならともかく、内容的な疑問の赤字だ。具体的な方策などは示されていない。ほぼ毎週、提出する度に同じことが繰り返された。精も根も尽き果てて、もう辞めようと思った。ここまで来たけれど、修士号は諦め、もう一つの資格にチャレンジし、今後はその資格で勝負して行こうと思った。

 でも、どこかにやはり諦めきれない気持ちもあって、辞めると宣言する前に、思い当たる二人に電話した。その一人のカルメンは、一年前にやはり、エバの下で、卒業論文を仕上げたのだった。彼女に私の状況を話すと、彼女もやはり同じたったと言う。エバとのやり取りの後で、いつも泣いていたという。だから、それは個人的なものではないから、頑張るようにと励ましてくれた。電話したもう一人は、エバと並ぶ教授のジョリーで私の卒論のインストラクターでもあった。彼女も、続けなさいと言ってくれた。二人の励ましで続けることにした。だがそれ以降は、少し策を変えて、他の先生からの助言などを全面にだし、エバが闇雲に突き返すことが出来ないようにした。

 そして遂に卒論は完了し、卒論の発表にこぎつけた。おぼつかないものだったが、私にとっては、とにかく終えたい、ただそれだけだった。ちなみに、卒論のタイトルは、The Relationship among Years post-RD, Demographic Characteristics and Level and Frequency of Involvement in Selected Job Activities というもので、RD取得後の年代別(一年後、3年後、5年後)の統計的な特徴とリサーチなどの諸活動との関係を探ったものだった。この修士課程における最終GPA は3.380 だった。

 「威風堂々」の曲に合わせて行進する卒業式は誇らしかった。今回は夫のスティーブンがいてくれたので、もう寂しくはなかった。2008年(平成20年)5月のことだった。

(続く)

 

 

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失職して結婚。何カ月も待ってやっとグリーンカードが取れた。インターンシップのクラスメイトが私を雇ってくれた。そのバーゲン・レジョナル・メディカル・センターは、後の私の運に繋がった。

 

著書より前回の続き

 

バーゲン・レジョナル・メディカル・センターのポジション

 

 労働許可証を待つ間に、就職のことはあれこれ考えていたが、一つ大きな希望があった。それは、インターンシップの時のクラスメートのマンディが、既にバーゲン・レジョナル・メディカル・センターの食物栄養部のチーフ・クリニカルのポジションについていたことだ。チーフ・クリニカルとはダイエティシャンのトップだ。施設によっては、トップがマネージャーであったり、ディレクターであったりもする。マンディは、インターンシップ時には既に修士号を持っていて、知識豊かで、また人間性豊かな包容力も兼ね備えていた。

 6月に労働許可証が下りるとすぐにマンディに電話した。マンディによれば、少し先に空きがでるので私が入れるとのことだった。そして、約束通り、彼女は私を雇ってくれて、

7月の末頃から私はそこで働き始めた。

 

バーゲン・レジョナル・メディカル・センターについて

 

 バーゲン・レジョナル・メディカル・センターは、ニュージャージーバーゲン郡が所有する、長期療養病棟、精神科病棟、救急病棟、そして外来からなり、全1070床を持つ大型の病院だ。主に長期療養病棟(約600床)と精神科病棟(約400床)からなり、救急病棟は20床程で、ほとんどが長期療養病棟と精神科病棟から緊急疾患で移送されてきた患者で占められる。

 ダイエティシャンは資格を持っているRDと資格のないダイエティシャンの半々くらいで、総勢8人位いた。その当時そこのRDは時給18ドルで、資格のないダイエティシャンは16ドルだった。時給は相場よりも安かったが、郡立の病院で、組合もあって安心感があり、社会保険は整っていた。マンディはチーフ・クリニカルとして、ダイエティシャンを統括していた。マンディの上に34歳の若いディレクターのビンセントがいた。ビンセントもRD なのだが、彼は主にキッチン・食料科を統括していて、ダイエティシャンとの直接的な関わりは少なかった。

 私はバーゲン・レジョナル・メディカル・センターで、2004年(平成16年)7月から2007年(平成19年)2月までの2年7カ月勤めた。時給が安いせいで(資格のないダイエティシャンを除いては)、ダイエティシャンの回転率は高かったので、私は比較的長く働いたことになる。その理由は、いくつかある。先ず、雇ってくれたマンディに感謝の念が強く、尽くしたかったこと、次に、履歴書をこま切れの履歴ではなく、定着して働いたことを示す美しいものにしたかったこと、そして最後に、修士課程を取り始めていたので、それに集中したく、転職等に神経を使いたくなかったことがある。長期療養病棟で働き、最後の約一年は、精神科病棟、救急病棟、そして外来(個人を対象にした栄養教育)を担当した。

 けれども、その間の2005年(平成17年)にマンディとビンセントは追われるように去って行った。それというのも、食糧・栄養部門が外部の会社に委託されたからだ。それに伴い、役職者が変わり、ビンセントの居場所はなくった。マンディの上には、経験のない女性のディレクターが配置された。

 7月頃だったか、ビンセントの送別会がダイエティシャンのオフィスで開かれた。ケーキを食べ終わると、一人また一人とそれぞれ仕事に戻って行った。ビンセントはそこに残っていた。事情が事情だけに、不憫にも感じた。ビンセントがそこにいる間は、送るものとして、付き合いたいという気持ちと、自分の将来のためにもビンセントの連絡先を確保しておきたいという気持ちがあった。遂に、皆が仕事に戻って行って、ビンセントと二人だけになった時、私は送別の意を述べ、そして彼の連絡先を聞いた。ビンセントは私に彼個人のメールアドレスを教えてくれた。

 その年の11月に、ダイエティシャンが属することになったその会社の大々的なパーティ―がバンケット・ホールで開かれた。マンディはその時既に、カリフォルニアにダイエティシャンのマネージャーの職を見つけていた。そしてそのパーティが彼女の最後になった。

(続く)

 

 

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RD (公認管理栄養士)としての初めての就職。バケーション。そして失職。

 

著書より前回の続き

 

日本行きのバケーション

 

 その年の6月から、スティーブンとともに暮らし始めていたので、8月の末から9月の始めにかけての2週間のバケーションをとり、スティーブンと日本に帰国した。以前に米国再入国不可の勧告を受けた経験からも、米国再入国に必要な書類については、弁護士事務所にも確認して、万全を期した。

 バケーション前の最後の日には、全てのスケジュールをクリアしようと、6時の定時を過ぎても頑張っていると、そこにさらに、MDS コーディネーターから追加を次から次へと頼まれ、8時になってもまだ終わらなかった。翌日からくる臨時のダイエティシャンに頼むより、私のいる間に、滞りなく済ませてしまいたいからのようであった。それでも、翌日は予定通りバケーションに旅立つことが出来た。

 2週間の旅を終えて、米国に戻るべく成田空港に着いた。フライトの窓口に行ってパスポートを提示すると、係員から、ビザがないと言われた。だから飛行機に乗れないと。そんなバカな。そんな時に備えて、弁護士事務所から指示されていたように、米国移民局からのH1B ビザの発行証明書とビザ申請書一式のコピーを提示した。だが、それでもH1Bビザのスタンプがパスポートにないから駄目だと言う。確かにそのスタンプはなかった。でも、弁護士アシスタントが指示した通りにしたのだ。もう何が何だかわからなかったが、ともかく飛行機には乗れないというのだから、観念して、スティーブンと共に友人宅に戻った。そしてその夜(アメリカでは午前中)アメリカの弁護士事務所に電話して、弁護士本人と話した。弁護士は、アシスタントの指示ミスを認め、唯一の解決策は、日本でそのH1Bビザのスタンプをもらうことだと言った。書類は全て持参しているので、その申請には問題はない。翌日早速ビザ等を代行する代理店に出向き、H1Bビザのスタンプをパスポートにもらう手続きをした。

 手続きは簡単だったが、そのスタンプの発行までに10日から2週間かかると言う。後はただスタンプの発行を待つだけなので、スティーブンは先にアメリカに戻り、私は姉の所で時を過ごした。職場のマネージャーのデボラにも直ぐ電話し、留守電に、それらの事情と帰国が伸びる旨も残した。

 

職を失う

 

 10日ちょっとしてから、ついにそのH1Bビザのスタンプのあるパスポートを受け取り、無事に米国に帰国した。9月の20日頃になっていた。翌日早速、職場に赴き、マネージャーのデボラに会った。予想通りデボラは機嫌悪く、文句を言い始めた。仕事が腐るほど出てきて、やってもやっても終わらないということだった。確かに帰国が遅れ、バケーションが伸びたのは(弁護士事務所の件はさておいて)100%私の落ち度だが、私の留守中は臨時のダイエティシャンが代行している筈だ。日数をカバーできなかったのかどうかは、ひっきりなしの文句でよく分からなかった。ただ、仕事の割り当て量が異常に多いというのは、マネージャーの裁量なので、私のせいではない。

 結論は出さずに、終わりのない文句が続いた。私の荷物は、あたかも首を匂わせるように、小さな袋にまとめられていた。私は、だんだん聞くのも億劫になって来た。私は、そこで、どんなにつらくても、最低1年は働こうと思っていた。H1Bビザをサポートしてくれたのだ。その恩は忘れない。でもそのなじるような文句は延々と続いていた。私はもうけりをつけたいと思った。それで私はデボラに、辞めろということなのかと聞いた。それに対してデボラははっきりとは答えなかった。肯定も否定もしなかった。でも私は、首になったかのように、荷物をもってデボラに別れを告げた。

 H1B ビザは、職を失うとともに、失うのだが、その後間もなく、弁護士等と話すと、職を失ってもまだ猶予期間というものがあるということを知った。それには、職を失った日を確定するために、雇用者の解雇日を記した手紙が必要だと言う。それで、私は、デボラに、連絡し、その旨を頼んだが、結局その手紙はこなかった。彼らは私を解雇したことにはしたくなかったらしい。

 

職探し、結婚、グリーンカード

 

 職を失って、H1B ビザも自動的に消失したので、職には付けないわけなのだが、なぜか反射敵に職探しの電話をしていた。その後直ぐに、前述の、解雇日を記した手紙が必要なことを知り、それを要求して待ったがそれも来なかったので、猶予期間を特定することもできず、結局職探しはできないと悟った。

 スティーブンはパートなので、私の収入がメインだった。だから、それからというもの、彼のパート収入と私の貯金の切り崩しで食いつないで行くしかなくなった。一緒に暮らし始めた頃から、特に問題がなければ、約一年後に、私達は結婚する予定だった。その予定を繰り上げるような恰好で、その年の11月に、小さな教会で、スティーブンの友人の立ち合いだけで、結婚式を挙げた。 

 結婚後直ぐに、アメリカ人の夫との結婚による労働許可証グリーンカードの申請を行った。労働許可証は翌年の6月に、グリーンカードはその5カ月後の11月に発行された。

(続く)

 

 

44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉟

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

念願の管理栄養士の資格試験、RD Exam に合格.管理栄養士/RD としての就職です。

 

著書より前回の続き。

 

RD としての就職(2003年・平成15年3月)

 

 早速RDとしての職探しを始めた。臨床ダイエティシャン(Clinical dietitian) になりたい。病院、リハビリテーションセンター、長期療養施設・老人ホームの空きを探した。一たび資格を持てば、職探しは一般職のそれよりずっと容易だと言える。一つの空きに何十人も何百人も応募するということはない。せいぜい数人だ。それでも、私の場合は語学のハンディがあるので、競争は厳しいと言えるのだが。

 それと、臨床ダイエティシャンとしては、長期療養施設・老人ホームよりも病院に人気がある。統計においては、長期療養施設・老人ホームの方が給与水準がよいにも関わらずだ。ある先生にそれがなぜなのかを聞くと、その先生は、人が死にむかっているのが陰鬱だからだという。その時私はそれを全く意に返さなかった。年取っていようと、若かろうと、患者は患者だと思った。

 いくつかの空きを見つけ、応募し、結局ニュージャージー州の JFK老人ホームのダイエティシャンの職を得た。マネージャーはフィリピン人のダイエティシャンだった。息子の嫁が日本人だということで、私に親しみを覚えたようだった。ビザの件も面接時に話した。スポンサーが負担する申請費用は後で返すとも付け加えた。すると、そのマネージャーは、こともなげに、サポートすると言ってくれた。ナースなどで、そのような例を経験しているらしい。気の抜けるほどスムーズにビザ・サポートを得られ、私の初めてのRD としての職が3月の下旬から始まった。

 

H1B ビザの申請

 

 H1B ビザとは、学士以上の学位保有者で専門職につく者に与えられる就労ビザだ。専門職の例としては医者、金融アナリスト、会計士、薬剤師、ITのプログラマーなどの専門技術者等が挙げられる。毎年の申請の受付開始が4月1日で、申請受付数が上限を超えた場合には、受付が締め切りになるので、その年によるが、申請受付締め切りが4月上旬のことが多い。

 つまり、4月1日から4月7日位までの間に職をもって申請しなければならないことになる。このタイミングは、考えただけでも至難だと思われた。それまでに移民弁護士の所を訪ねてなんどその事を聞いたことだろう。そこのスタッフには、うるさがられて、その時になったら、考えようというような対応になった。

 さて、3月下旬のこの時の私の状態は、5月半ばまでのプラクティカル・トレーニング・ビザで合法に働けて、かつ4月1日からの申請受付期間に直ぐ申請できるという幸運が重なった。条件も書類にも困難はなかったので、後はいかに迅速にそれらを進めるかだけだった。費用を上乗せすると、15日で発行されるという特急申請 (premium processing) という選択があったので、それも使った。かくして、私は4月20日に3年間のH1B ビザを手にすることが出来た。ビザの事を持ち出して首になった、1月の半ばから、RD examの猛勉強、合格、就職と瞬く間の、4カ月後のことだった。

 

JFK老人ホームでの仕事

 

 そんなわけで、私は、H1B ビザをもち、合法的に、RD としてJFK老人ホームで働き始めた。私の前にはフィリピン人の資格をもっていないダイエティシャンが働いていたが彼女はやめることになっていた。修士号ももっていて聡明なRD のジョセフィーヌは、週2・3日のパートで働いていたが、彼女も去っていった。時給は19ドルで始まり、一カ月後には20ドルにあげてくれた。但し社会保険はついていなかった。

 私は一階と二階の全ての入居者200人を受け持つことになった。これは異常に多い受け持ちだ。老人ホームではRD 一人に110-120人位の受け持ちが妥当と聞いているから、通常の二倍近くということになる。おまけに、栄養評価のシステムもなかった。体重が激減したり、激増したりしても、偶然に発見するか、見過すかで、システマティックなフォローアップは出来なかった。マネージャーのデボラは、日にひに私の見過しを意地悪く批判するようになっていった。

 そもそも長期療養施設・老人ホームのダイエティシャンの仕事は、MDS (minimum data set) コーディネーターによって作成された週毎のスケジュールに従って入居者の栄養評価をし、MDSにおけるダイエティシャンのセクションの入力をする。その間にも、入居者からのメニューの好き嫌い屋や注文があれば聞き、また食事療法が必要な場合には、本人か家族に食事療法の説明や教育をしなければならない。担当の人数が人数なので、それだけで精一杯で、体重変化のフォローアップ等はシステムもなく出来なかった(後に働いた施設ではシステムがあり、神経をすり減らさずにフォローアップができた)。

(続く)