44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㊳

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

この間に、平行して取っていた修士課程について述べます。45% のダイエティシャンがもっているという修士号はどうしても取りたかった。私の語学のハンディを埋めるためにも。でも、これも大変でした。

 

著書より前回の続き

 

修士課程に関して

 

 修士課程を取ることは、働き始めてからの懸案だった。それというのも、JFJ老人ホームで働いているときに会ったジェニファーや、臨時のパートできていたアリスからのインパクトが大きかった。二人とも修士号を持ったRDだった。自分の判断に100%の自信が持てない時、彼らに聞くと、彼らも同じ判断をしている。でも、彼らにはもっと確かな知識の裏付けがあるような気がした。私には薄っぺらな知識しかないと感じた。それもその筈。学士課程の3年間とインターンシップの約1年間の口頭の授業の内容を、ヒヤリングの悪さから、ほとんどミスしているのだから。案外、教科書に書いてあることは、無駄がなく濃密で、口頭の授業の方は、ジョークを除いて、省いても何ら差支えのないものだったかもしれない。でもそれは私にはわからない。あるときアリスは、栄養評価に正否はないと言った。絶対的なものではないという意味だ。そんなことが言えるのも、アリスに知識の裏付けがあるからだと思った。

 これは後から分かったことなのだが、約45%のRDは修士号をもっている。だから、RD 同士で互角に討議するためにも、修士号を持っていることに越したことはない。実際2024年からは、インターンシップ・プログラムへ入るには、修士号取得者でなければならないという。

 学士課程の栄養学のコースでしばしば一緒たったスーザンは、他大学のダイエタティック・インターンシップを私と同時期に取って、RD Exam にもすぐに受かった。そして、修士課程にもすぐに入り、2003年の春には卒業論文の発表と審査を受けて、無事終了している。スーザンは一緒に勉強したり、教科書を貸したりした仲間だったから、スーザンが取った修士課程なら、私にも取れそうな気がした。

 

ニュージャージー州立医科歯科大学における臨床栄養学の修士課程

 

 スーザンの取ったのはニュージャージー州立医科歯科大学(現ラトガース大学)における臨床栄養学の修士課程だ。このプログラムはワークショップ等を除いては、全てオンラインで行われる。スーザンに、私がそのプロブラムに興味があることを話すと、プログラムディレクターの連絡先を教えてくれた。

 入学の出願に必要なものは、学士号、GPA 3.0 以上、RD であること、短期と長期のキャリアゴールのステートメントなので、ステートメントさえ書けば、要件は満たされる。GRE (修士課程進学者のためのテスト) のスコアはいらない。RDの資格がその代わりとなっている。あとは、プログラムディレクターのエバに連絡して、受け入れてもらうだけだ。

 ちなみに、エバは博士号を持った教授なので、通常、ドクター○○と呼ぶべきところなのだろうが、この学校では、ファーストネームで呼ぶ習慣があった。それは私の、アメリカの大好きな側面だった。

 エバに電話して話をした。エバがどのようにしてこのプログラムを知ったのかと聞くので、私は、元のクラスメートのスーザンから聞いたと言った。すると、スーザンの印象はかなりいいらしく、それなら、信用ができるというような感じで、入学を許可された。

 

臨床栄養学修士課程を終えるまで

                                                                     私は、このプログラムを2004年(平成16年)1月から2008年(平成20年)5月まで、4年かけて終えた。辛く長い道のりだった。一般的に、修士課程は皆働きながら取る。それでも2科目位づつ同時にとって行き、卒業論文も含めて計31単位を取り終え、2年から2年半くらいで終了する。私の場合は、1科目づつ取ったのだが、それでも私にとっては忙しかった。

 教室で行われる授業とオンラインの授業では、どちらが容易か。私は始め、オンラインの方が楽なような気がしていた。その理由は、通学しなくてもよい事と、時間を自由に使えることだった。確かにその二つの点はメリットだったが、だから楽ということは全くなかった。

 私のとったこのオンラインのプログラムの典型的な一週間は次の様なものである。

毎週インストラクターからの、新たな課題と2・3の設問が提示される。それと同時に参考文献として教科書の1-2章分と、ジャーナル(学術論文)の記事3-4本分が提示される。読むこと自体が宿題ではないので、読まなくてもよいのだが、設問の答えはその中にあるので、読まないわけにはいかない。私の読む速度はネイティブ・イングリッシュ・スピーカーと比べると、4・5倍遅いのではないかと思うのだが、それらの資料を読むのに、2-3日、週末だったら週末中かかることも稀ではなかった。

 そしてその答えとその根拠を示してオンラインにポストする。クラスは大体25人くらいなので、25のポストがある。その各々のポストにコメントなり、質問なり、または反論なりしなければならない。と言うのも、参加することも成績に考慮されるので、いい成績を得るために、皆、熱く参加する。コメントやら質問にも答える。するとどうなるか。ポスト、ポストの錯綜だ。それが5日間位続く。コンピューターを閉じている時は、何も聞こえない静寂の世界だが、一たびコンピューターを開くと、そこは戦場だ。時々、コンピューターを開くのが、恐ろしくなることがあった。

 それから、サイバーブリーがある。いじめだ。とは言っても、それはあからさまに相手を傷付けたりするのではなく、無言、または無視だ。私のポストにはまったく組みしない人、私のコメントなどには反応しない人、たまに反応したと思ったら、私の意見に真っ向から挑み、笑いものにしているようなものだったり、、、。傍から考えれば、どうでもよいようなことかもしれないが、当事者にしてみると、相当に傷つく。でも私は、これは自分のためにやっているのだ、「そいつら」のためにやっているのではないと、自分に言い聞かせて乗り超えた。                                 

 卒業論文では死ぬほど苦労した。ちょうど転職した時期と重なり、職場などからじっくりデータを集めることが困難だったので、先生の提案で、既にあるデータを使って、違う側面から分析をすることになった。そして、統計学の公式を使って数字的な結果を出すところまではよかった。私の得意とするところだ。だが、それを論じて結論に導くところがうまく行かない。指導者のエバに持っていくたびに、赤字で戻される。文法などの赤字ならともかく、内容的な疑問の赤字だ。具体的な方策などは示されていない。ほぼ毎週、提出する度に同じことが繰り返された。精も根も尽き果てて、もう辞めようと思った。ここまで来たけれど、修士号は諦め、もう一つの資格にチャレンジし、今後はその資格で勝負して行こうと思った。

 でも、どこかにやはり諦めきれない気持ちもあって、辞めると宣言する前に、思い当たる二人に電話した。その一人のカルメンは、一年前にやはり、エバの下で、卒業論文を仕上げたのだった。彼女に私の状況を話すと、彼女もやはり同じたったと言う。エバとのやり取りの後で、いつも泣いていたという。だから、それは個人的なものではないから、頑張るようにと励ましてくれた。電話したもう一人は、エバと並ぶ教授のジョリーで私の卒論のインストラクターでもあった。彼女も、続けなさいと言ってくれた。二人の励ましで続けることにした。だがそれ以降は、少し策を変えて、他の先生からの助言などを全面にだし、エバが闇雲に突き返すことが出来ないようにした。

 そして遂に卒論は完了し、卒論の発表にこぎつけた。おぼつかないものだったが、私にとっては、とにかく終えたい、ただそれだけだった。ちなみに、卒論のタイトルは、The Relationship among Years post-RD, Demographic Characteristics and Level and Frequency of Involvement in Selected Job Activities というもので、RD取得後の年代別(一年後、3年後、5年後)の統計的な特徴とリサーチなどの諸活動との関係を探ったものだった。この修士課程における最終GPA は3.380 だった。

 「威風堂々」の曲に合わせて行進する卒業式は誇らしかった。今回は夫のスティーブンがいてくれたので、もう寂しくはなかった。2008年(平成20年)5月のことだった。

(続く)