44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉛

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

アメリカの管理栄養士、ダイエティシャン、になるために必須のインターンシップも終盤に入ります。

 

著書より前回の続き。

 

雑用を課される

 

 先輩インターンからの情報で、フィールドワークでは理不尽な要求をされることもあるとは聞いていた。だから、そんなことがあっても、それもインターンシップの修業だと考えると決めていた 。

 そしてそれが起こったのは、最後の小児科分野のローテーションでのことだ。計二週間の内の何日目かに、何種類もの色違いのチラシを何室もある診察室の壁に張り巡らせる仕事を言いつけられた。前のチラシ等は剥がして、新しいチラシをホチキスで壁に張り巡らせる仕事は、単純な作業だが、時間がかかった。そして、その日予定されていた、学ぶべき課題は手てつかずのままになった。

 案の定、残された課題を終えるために、私の日程はさらに追加された。それは最後のローテーションだったので、皆は次々と終了している間に、まだ終了できずにいたのは私も含めて三人だけだった。そのため、私は、後述するスタッフ・リリーフの後にも、その小児科のローテーションに戻り、日程をこなす羽目になった。

 

スタッフ・リリーフ

 

 スタッフ・リリーフ(Staff Relief)とは、全てのローテーションを終えた後で、3週間、ダイエティシャン(RD)の仕事を、ダイエティシャンの指図なしに完全に任されてやる期間のことだ。勿論、最終的には、ダイエティシャンが確認して連著する。スタッフ・リリーフの場所は、それまでやって来たローテーションの中から、自分で選び、交渉して決める。

 私は、アルバイトも少ししていたリハビリテーションセンターのインストラクターにスタッフ・リリーフの希望を伝えると、難なく受け入れてくれた。リハビリテーションセンターには、脊髄損傷、脳損傷、神経疾患、脳卒中、膝上・膝下切断、股関節置換,膝関節置換、心臓疾患等々、様々な患者がいる。ダイエティシャンは、それらの患者の栄養評価と介入、そして退院後を展望した栄養教育をする。

 そこは慣れた場所であり、またインストラクターも私に好意的であったので、3週間の工程はスムーズに行った。

 

インターンシップのその他諸々

 

 低学年児童に対する栄養教育で訪れた学校は、低所得層の移民の多い地域で、子供たちは、私のことをミス・ユーコと呼んで慕ってくれた。学校や病院のフードサービスの管理も体験した。諸々違う分野で働くダイエティシャンの姿を実際に見ることができた。 常にそのローテーションで出された宿題やら、課題やら、プロジェクトに終われ、前半は特に、悲鳴をあげるほど忙しかった。他のインターンも同様で、デートを楽しむ暇もなく、ボーイフレンドが彼女のインターンシップが終わるのを待ち焦がれているというのも聞いた。ともあれ、結果的には、無事9カ月を通過することが出来た。

 木曜日のインターンが集合するクラスの日には、物静かで聡明なパトリシアといつも一緒だったので、わたしは、孤独でも寂しくもなく、インターンシップの期間が楽しいものとなった。彼女は他の大学を出て、修士も既に取っていた。その後に挙げられた彼女の結婚式には、私を招待してくれた。 

 他のインターン達は、そのスタッフ・リリーフの場所でその後の就職の話を取りつけたりもする。現に、スタッフ・リリーフを終えたその施設で、直ぐに働き始めたインターン仲間がいる。でも私にはそれは、語学への自信のなさで、絶対にできなかった。キチンと資格を取ってから、その資格を武器に職探しをしようと思っていた。

  スタッフ・リリーフが終わり、もう卒業パーティーが真近だというのに、私はまだ完了していない小児科分野のローテーションに1・2日戻ることとなった。そして、やるべき課題を終えた後、私に雑用を押し付けたインストラクターは、そんなことはすっかり忘れているかのように、何故か恩着せがましく、私が及第したことを示す書類にサインをした。

 

インターンシップを終えた後の私の英語力

 

 インターンシップの最後のクラス・ミーティングを終えた後、パトリシアと学内のカフェでくつろぐことにした。そこに他のインターン二人も加わり、計四人で他愛のないおしゃべりをして、時を過ごした。話の内容は、就職のことや資格試験のことが主だったと思う。一時間程して話もつき、皆席を立って別れた。そして私に一つの驚愕が残った。

 その一時間中、皆の話している内容が一つもわからなかったのだ。私は、3年間、栄養学の専門コースをとり、アメリカの学士号を取った。一年近くのインターンシップにも入り、終了した。一応何とかやって来れたわけだ。でも、思えば、それらの中で触れてきた英語は、音節(syllable) のはっきりしたプロフェッショナルの英語だった。仲間同士の会話は、ずっと速く、音節もはっきりしないし、日本人には馴染みのない慣用句も多い。

 時々私に話かけてくれる時は私向けに話す英語のようで、わかった。まるで大学生の中に混じった幼稚園生のようだった。

 その生の速い英語に何とかついて行けるようになったのは、後述する、その後の修羅場をくぐってからのことだった。

(続く)