44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉚

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

今回も、アメリカの管理栄養士、ダイエティシャンになるために必須のインターンシップについての諸々です。

 

著書より前回の続き。

 

インターンシップに付随した修士課程のコース

 

 初めに取った、秋学期の修士課程のコースは「栄養学における新しい発見」(New Findings in Nutrition)で、栄養学の最新の記事を読み、内容を分析して、栄養と健康について学ぶというものだった。課されたプロジェクトは、各個人が自分で選んだ最近の記事を分析して、内容をクラスに発表するというものだった。私は、乳がんと大豆食品の関係の論文を選んだ。成績はA-だった。

 二つ目の春学期のコースは、「食物と栄養の諸問題」(Food & Nutrition Issues)だった。消費者、食品業界、政府そして栄養学から迫る食物と栄養の諸問題。やはりプロジェクトがあり、わたしも、地元の市長にインタビューした。私が何の課題を選んだか今思いだすことが出来ないのだが、成績はAだった。とった単位は、もしそのまま修士課程に進めば、必要単位数に生かすことができる。

 

手書きが読めない

 

 フィールドワークの一番始めに直面した困難があった。それは、病院の内科外科のフロアで働くダイエティシャン(RD)の仕事を学ぶ時だった。ダイエティシャンは患者の栄養評価をして、病状に即して介在、そして患者または家族へ栄養教育をしていく。栄養評価は、年齢、性別、身長、体重、体重の変遷、食物アレルギーの有無、家庭での食事の傾向、便通状態、病歴、血液検査等の結果、医師の診断、処方箋、現在の治療、治療の経過、予後等々のデータを先ず集めなければならない。それには先ず、患者のカルテを目て、手早にデータを拾っていかなければならない。患者へのインタビューはその後だ。

 今と違って、当時は、検査等の結果以外は、大半が手書きだった。そのカルテを見たときに私は愕然とした。それは医師の手書きの殴り書きだった。私にはまったく読めなかった。英語のネイティブスピーカーなら、推測などで私よりもっと読めるのだろう。でも私には無理だった。私の努力の及ばないところだった。その時点で、インターンシップの行き詰まりを感じ、絶望的になった。でも、その一方で、ここでインターンシップを頓挫させるわけにはいかないと強く思った。どうしたらいいのか。私は、僅かにある印刷した文字にすがった。読めない手書きがなんと書いてあるのか、人に聞いたりもした。ページを前後に行ったり来たりしながら、私のデータ集めはひどく時間がかかった。

 後にカルテは徐々にコンピュータ化されて、2014年からは、コンピュータ化は義務付けられるようになった。その理由は、記録へのアクセスが容易であることや、より安全に保存できること、その他諸々挙げられているが、判読不明な手書きによるエラーをなくす、ということも挙げられていた。私だけではなく、英語のネイティブスピーカーでも、正しく読めずに、間違いをおかしていたことが分かって溜飲が下がった。

 

褥瘡(床ずれ)巡回 (Wound round)

 

 長期療養施設のローテーションに入った時のことだ。長期療養施設においては、患者の多くが高齢で、長期に渡る入院滞在のため、褥瘡(床ずれ)ができることが多い。そのために、通常の医療ケアのほかに、看護師を中心にした褥瘡チームが存在する。そのチームにはダイエティシャンも含まれている。褥瘡チームは、週一回、褥瘡のある患者のリストに従って、巡回し、一人ひとりの褥瘡のサイズ・深さを測り、また治療法の決定、修正をしていく。ダイエティシャンの役割は、それらを記録することだ。

 長期療養施設のローテーションに入って何日目かに、その褥瘡巡回があった。インターンもダイエティシャンのしていることを観察するために、ついて回る。褥瘡の進行度には、深さ判定が不能な場合をのぞいて、1度から4度に分類される。1度はまだ皮膚が赤いだけで、傷口にはなっていない。2度から4度までが傷口としての重症度で分類されている。その4度は、骨にまで達している状態だ。

 私の初めての褥瘡巡回で、褥瘡4度に遭遇した。チームの皆は淡々とやるべき作業をしている。私もプロとして、その傷口を凝視した。何故か全てが緑がかって見え、僅かに血の気が引くような気がしないでもなかったが、私は平気な顔を装っていた。巡回が終わったあとで、インストラクターから、大丈夫かと聞かれ、わたしが顔面蒼白だったことを知った。

 (続く)