44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで㉘

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

死に物狂いだった3年間の後、ついに卒業。そしてインターンシップに入ります。

 

著書より前回の続きです。

 

卒業式、2001年(平成13年)

 

 卒業式が5月の末にあった。前年の12月に全てのカリキュラムを終了し、一月に 科学学士号(Bachelor of Science Degree)が下り、卒業が決まった。卒業式には是非出たかった。あの卒業生の着るガウンと房の付いたキャップにはあこがれていた。でも、周りをみまわしても、一年目に一緒だったクラスメートはちりじりになって何処かに消えてしまったようだ。最後の頃のクラスで一緒だったテリも卒業が決まっていたので、参加するかどうか聞くと、卒業式には関心がないようだった。

 憧れの卒業式だったが、私には卒業を祝ってくれる人も、卒業式に出てくれる人もいない。マクロビオティックの友人・知人に頼めば、来てくれたかもしれないが、遠すぎたり、困難があったりしたので、頼まなかった。でもたった一人で出席するのはみじめすぎる。色々考えたすえ、留学生のための英会話クラブでチューターを務めていた修士課程の学生のエレンに頼むことにした。エレンは快く卒業式への列席を引き受けてくれた。

 そして、私は晴れて卒業式に出席した。馴染の顔は、ソチこちにあったが、ダイエタティクス専攻ではジェシカただ一人だった。ジェシカは一年目の最初の学期の化学の授業で一緒だったきりだ。久しぶりで話をした。彼女はダイエタティック・インターンシップには入らず、ダイエティシャンになるつもりもないようだった。

  地元新聞によると、その日モントクレア州立大学を卒業したのは、全体で、2446人だった。卒業式の名簿では、私のとった栄養学(Food and Nutrition)傘下の「ダイエタティクス」の専修で18人、「フード・テクノロジー」で4人、「一般栄養学」で14人だったが、ジェシカ以外には栄養学部の知る顔に出会わなかった。大勢のなかで、どこかにいたのかもしれないが。

 エレンとは、卒業式の後で、一緒に食事に行く予定でいたのだが、彼女の気分が急に悪くなってしまい、急遽父親が彼女を連れ帰ることとなってしまった。アパートに私一人が残された。やっぱり、たった一人の卒業式になってしまった。それでも、卒業式のガウンを脱ぎたくなくて、部屋でいつまでも着たままでいた。そして、鏡に映った自分の写真を何枚も撮った。

 

第3章 ダイエタティック・インターンシップ2001年(平成13年)

 

ダイエタティック・インターンシップの顔合わせ

 

 当時「AP4」 と呼ばれたモントクレア州立大学のダイエタティック・インターンシップ・プログラムは9月から始まり、翌年の6月に終わる9カ月のコースだ。そして、その間に、二つの修士課程の栄養関連のクラスを取ることも義務付けられている。

 9月の始まりの前の、6月に一度、終了を控えた前年度のインターンシップ・プログラムのメンバーとこれから始まる新メンバーとの顔合わせのミーティングがあった。旧メンバー10人の内一人がドロップアウトしていた。新旧メンバー計19人が一人ひとり自己紹介をした。ダイエタティック・インターンシップ・プログラムはとても大変だと言われるだけあり、旧メンバーには、行程を終えた後の自信と余裕が見て取れた。それに相反して、新メンバーは皆、不安な気持ちを胸に秘めているようだった。旧メンバーからのアドバイス、新メンバーからの質問等が交換された。

 

黒いバインダー

 

 そのミーティングの最後に、インストラクターから分厚い黒いバインダーが新メンバーの一人ひとりに手渡された。それはなんと、9月のダイエタティック・インターンシップ・プログラムの始まりまでに終えなければならない宿題だった。それには、それまでに習ったことや、習っていない内容の設問がびっしりと詰まっていた。それに加えて、必修科目で使った基礎医学用語のテキストの設問部分を全て回答して、それをを提出するようにも言い渡された。その量にも圧倒されて、皆茫然とした。

 インターンシップの前の夏休みは、全てから解放されたつかの間の平和な日々で大いにエンジョイしようと楽しみにしていたのだが、その思惑は見事に外れた。宿題は直ぐにはじめても、一日5ページ位づつこなさなければ、余裕をもって終わらない量だった。

 確か私は、二週間ほどの日本帰国後の6月末頃から、宿題に取り掛かった。朝から昼くらいまで、学内の保育園のアルバイトもしていたので、宿題に取り掛かるのは午後からだった。調べることも多くて、一日5ページも進まない日が多かった。次第に、バイト等やっている場合ではないと思い始め、8月の初めにバイトはやめた。

 インターンシップでも一緒になったテリから電話があった。彼女も同じような状況で、不安が募っていたようだった。彼女が一緒に宿題をやろうと言ってきたので、合意して、彼女が私のアパートにバインダーをもってやって来た。やっているページも違い、お互い写し取る気はなかったので、一緒にやる意味はあまりなかったが、彼女の不安は和らいだようだった。

 彼女は数ページ先に進んでいて、そこの設問の回答のために、私が任意で買ってもっていたテキストを貸してくれと言う。私もそのテキストが直ぐに必要になるので、数日中に返してもらうことを条件に、そのテキストを貸した。だが、数日後に、私がそのテキストを必要になった時にも、そのテキストは返ってこなかった。一週間位して、ついに彼女の携帯に電話を入れると、彼女はなんと、一週間位前に宿題を終らせて、ビーチにいると言う。私のテキストのことなどすっかり忘れて。あの時は本当に呆れた。 

(続く)