44歳からの留学 ― 米国管理栄養士の、事の始まりから現在まで⑮

こんにちは。『44歳からの留学 -67歳現役米国公認管理栄養士、20年の奮闘記』(Book Trip)の著者のYufiこと堀尾シェルド裕子です。私の体験が、これから留学を考 えている人、米国で管理栄養士になることに興味のある人に役立てることを願っています。また物見遊山でこのサイトをみた方、野次馬も歓迎です。コメントもよろしくお願いします。

 

カリフォルニアでの大学留学準備コースが終わりかけたころ受け取ったのは、母が倒れたという知らせでした。

 

著書より前回の続き

 

母が倒れたという知らせのFax

 

 留学準備コースはもう終盤に来ていたので、いよいよ始まる大学生活に思いがはせ、またニュージャージーの大学へ行く道程について考えていた。西から東への横断の旅だ。通常は飛行機を利用するのだろうが、私は、お金の節約のために、バスで行くことを考えた。バスで3日かかる。それも面白いかもしれないと思った。ニュージャージーにいるマクロビオティックの知人にその事を話すと、それは危ないからやめろという。フライトのチケット代は出してくれるという。私は、バスで行くことにウキウキしていたのと、始めから他人に金銭的に頼るのは腑に落ちなかったので、断ったのだが、その知人は、やはり、バスの中では窃盗などもあるし危ないからやめろと言う。自己負担では、バス代からフライト代への飛躍する出費に耐えがたかったので、私は、やむなくそのチケットの申し出を受け入れることにしていた。

 そうこうしている日々に、姉からの突然のFaxを受け取った。母が倒れたのですぐに帰国してほしいという。姉に直ぐ電話したが、それが一時的なものなのか、決定的なものなのかははっきりしなかった。モンテレイのコースは、あと10日位で終了してしまうので、そこに荷物を置いておくわけにもいかないし、かと言って、まだ始まってもいない、次のニュージャージーの大学に送るわけにもいかないので、私は、大きなスーツケースに入りきらない程の荷物を再び詰めて翌日に帰国した。

 81歳の母は脳出血で倒れたのだった。病院に母を訪れると、目を閉じたままの母だったが、裕子だと言って手を握ると、手を握り返した。あれが、母との最期のコミュニケーションだったのかもしれない。その後姉と私が毎日交代でお見舞いに行ったときには、母の好きだった美空ひばり三橋美智也のCD をイヤホンで聞かせた。母はその時、目を開けて、懐かしく聞いているようにみえた。病院の医師は、母が肉体の刺激に対して反応するということを肯定的に話してはいたが、かと言って、快方に向かっているとも、もうダメだともはっきりしたことは言わなかった。母が倒れてから20日位した8月31日の朝、病院からの電話で、母が亡くなったという知らせを受けた。姉の家族皆と病院に向かうタクシーの中で、プリンセスダイアナが交通事故死をしたというニュースを聞いた。だから、毎年のプリンセスダイアナの命日のニュースが流れるたびに、母の死が重なる。

 

傑出した学生への賞(Outstanding Student Award)

 

  日本に帰国してから、 半月ほどしたある日、カルフォルニアモンテレイからレターが届いた。私が「傑出した学生への賞」(Outstanding Student Award)を受賞したというものだった。40代で真面目によく頑張ったということなのだろう。うれしくもあったが空しい気持ちもした。私の最後のプロジェクトは、進行途中で完成を果たす事なく帰国した。私自身、どんな出来になるかも予想できなかった。それに、モンテレイは、あくまで留学準備コースであって、本番ではなかったから。でも、その賞は、日本にいた私への慰めと思いやりであろうことは有難くに受け止めた。

 

留学の延期

 

 母の死後、認知症の父が一人残された。この前年に、両親は、姉の提案で、姉家族の家のすぐ近くのアパートに越していた。それでも姉は、父の世話のために、たとえ近くても、行ったり来たりするのは大変だから、父を姉家族の家に引き取るという。但し、空き部屋はないので、働き始めていた姪が家を出て、そこに父が入るという。ただ、その準備には時間がかかるので、準備ができるまでは、父の世話とアパートの整理をしてほしいという。この家族で折り合いをつけた決断をしてくれた姉家族には感謝している。

 海外留学センターの玉木さんに連絡を取って、状況を話し、留学を延期することができるかどうか聞くと、できる筈だという。玉木さんは早速大学に連絡を取ってくれて、その返事もすぐに来た。それは、入学許可は有効のまま保留されるというものだった。張り詰めた気持ちが、安堵に変わった。玉木さんに礼を言い、大学にも心の中で何度も礼を言った。 

 母の遺品の整理は辛かった。まだハンガーにかかっているままのブラウス...下駄箱の靴の処分...それは、母の生きた証をひとつづ消すような作業だった。幸いにも、不用品を引き取ってくれる施設の存在を知り、箱に詰めてはそこに送り始めたので、少し救われた。その年の暮に、姉の家の父を受け入れる準備と、私の母の遺品の整理がほぼ同時に終わり、父は姉の家に移った。1997年(平成9年)の12月だった。

(続く)